できるようになりたい人へ
何かをできるようになりたい。そう口にする人はとても多い。
ICT研修会やアドバイザーをやっていて、「私もパソコンできるようになりたい」「どこで勉強したんですか?」とよく聞かれる。
わざわざ勉強したかというと、どこで、でもなく、手当たり次第やっていた気がする。スクールに行ったことはない。でも仕事にしている。
それにきっと私のICTスキルなぞ穴だらけだ。私の知らないことを知っている人は山ほどいる。でも「できる」と言える。自己紹介で「パソコンを学校の先生方やこどもたちに教えています」と胸を張って言える。
ICTに限らず、自分は何ができるか?と聞かれたらたくさんできることがあるはずだ。でもみんな「できません」と言う。
たとえば私。
歩けます。走れます。跳べます。
料理ができます。洗濯ができます。裁縫ができます。掃除ができます。子供の世話ができます。赤ちゃんのお守りもできます。
絵が描けます。デザインができます。ピアノが弾けます。バイオリンが弾けます。歌が歌えます。バスケットボールができます。ダンスができます。スキーができます。
パソコンができます。英語ができます。
働くことができます。
自分の力で生活できます。家族を十分養える程度に稼げます。
これらすべて「できる」と言える。
でも、もう体力ないから、「歩けます」が、富士山には登れるかどうかわかりません。
「走れます」が、フルマラソン走れるかはわかりません。でもトレーニングしたらできるかもしれない。
自分が「できる」ことはたくさんあるはず。
でもみんな「できない」と言う。
なぜ「できない」なのか?
じゃあ私ができないことは何か?
水泳ができません…いや、できませんじゃないな。「苦手です」だ。
だって少しは泳げる。でも好きじゃない。
そして水泳は「できるようになりたい」と思っていない。
水泳は、「できると言ったらプールに誘われたり、海に連れていかれたら嫌だ」と思っているし、その前に水着を着たくない。海水のべたべたもいや。水に浸かってると体力消耗するからダイエットにはいいだろうけど、メリットデメリット比べたらやっぱりいやだ。そしてさらに水が怖い。だから結論「私泳げません」になる。
それに対してたとえば、「できる」と豪語したパソコンはどうか?英語はどうか?デザインはどうか?というと、できるようになりたいと思ってるし、できないと困る状況にある。もっとできるようになるための欲がある。
電源入れて、ワープロで短い手紙がかけるだけで、「パソコンできます」といっていい。でももっとできると良いことがあるからできるようになりたいのだ。
必死にならなきゃできるようにはならない。座学を受けても、イベントに出ても、何かを買っても。誰と繋がっても、だ。
何かができるようになる瞬間は、頭がかーっと熱くなって、「いま脳みそがモーレツに回転してる!」と感じる。(これは頭がもう古いからオーバーヒートしているのかもしれないけど)
その状況に自分が置かれるためには、「自分はできる!」と言葉に出すのはかなり効果的。「英語?できますよ」と言ったからメールの和訳をやたらと頼まれ、まさかの通訳にされてしまった。それから半年くらいで実際に外国に連れていかれて、うまく話せなくてかっこ悪くてもやらないわけにはいかなくて、わからなかったことを調べて、口に出して、スマホを駆使して何が何でも話して、次は言えるぞ!と思っては、また違うことがわからなくて。その繰り返しで、だから今少しできるようになった。でももっとできるようになりたい!
「できる」がスタート。「もっとできるようになる」と考えるのが大事だと思う。謙遜は美徳だが、それは「できる」がベースにあって、「できますが、でももっとできるようになりたいです。」と言えなくては謙遜ではなく、そして成長はない。やれる環境があり、心身ともに問題がないのに、「できません」は自分にとって逃げであり、保険だ。
本当にできないこと、やりたくないことは「できません」と言うのだ。
私は「できます」という人と共にありたい。
私が「できます」と言う人間だからだ。
それはわがままだろうか。