「好き」を作ることを一緒にかんがえる

こんにちは。今日は自分が起こそうとしている小さな会社のことを考えながら思ったことをメモしています。

AIにできなくて人間にできることは何か?なんて記事が最近とても多くなってきましたね。

AIに奪われない仕事とか。AIが自らAIを作り出し、育てるようになる未来とか。

私の作る会社はAIに奪われる仕事かなぁ。10年後にはいらない仕事かなぁと思い、弱気になったりして、改めて考えています。なんでこれやろうと思ったんだっけ?と。

ICT支援なんて貧困ビジネスになってる隙間産業を立て直すことなんてできるのか?というかそんなことして何ができるのか?

自分で納得してるはずなのに定期的にこんなことを自分に問います。

多分私は、パソコンが好きで、コンピュータは夢をかなえてくれると思っていて、ICT支援が「好き」で、パソコンがうまく使えると良いことがいっぱいあって、子供たちが「パソコンだー!やったー!」ってテンション上がる姿が好きで。

なのに使えば簡単なことも、使わないで苦労していたり、使いたいこどもや先生たちや保護者からもコンピュータを遠ざけたり、取り上げたりしている人(これは先生だけではない)との溝をなんとかしたいからだと思ったからです。

その理由の一つには、日本はコンピュータの利用に関して、世界的に遅れているということ。「うちはうち、よそはよそ」という段階ではなく、できる人まで押さえつけてIT業界の人手不足と、待遇の悪さ、スピード感のなさに絶望し、できる人は海外に逃げていってしまう状況です。

これを何とかするためには、自分が使わないのは自分の自由だ!という一見正しい主張の裏で、使いたくないために、その結果他の人まで苦しめていることに気づかない人に、納得してもらうための考え方を伝える技術がいる。「使いたくない、苦手で使わなきゃと思っても手が付けられない先生をサポートする。」そこがICT支援員としての仕事の一つだと考えています。

 

使いたい人には、なぜその使い方が嫌われているのか、なぜ遮られてしまうのかを理解してもらって、納得して使いたい人が使わせてもらえる学校を、ひいては社会をつくりたい。

その根底にあるのが「教育」であり、学校のみならず幼児期からの教育、これを変えないと、日本はPCをヘビーに使う人を新人類、異端者、変わり者、オタクで、使わない人が自然派、健康的、ナチュラル、心を大切にしている、学力が高いなどの間違った認識がいつまでも払拭できず、そのどちらのグループも究極の人たちだけが幸せを手にして、どちらにも振り切れなかった、何についても中途半端で、自分を「普通・一般的・特になにもできない」と自己肯定感も低い、最も多い中間層が増えれば、日本はどんどん貧困で不幸になっていくと思ったからでもあります。

極端かもしれないけど、今の若い人をみていてそう思うのです。併せて女性のICT活用率についても気になる。

スマホInstagramとかTikTokとかにどんどん写真や画像をアップして、加工もして、一見【ICT】へのハードルが低いのは女性の方なのに、プログラミング・PC操作などのいわゆる【IT】になると「えっ無理無理〜」とハードルが上がる傾向が感じられます。使い方をみていると、これまで苦手といっていた人は【C】があるからスマホを手にするのだと感じます。【C】が好きな人はスマホに移行しやすい。様々な壁を壊すのには【C】の力が不可欠だと感じたのです。

そこで、【C】ってなんだろう?と思いました。ICTのCはCommunicationのC。

でも、もう一つCreationのCでもあるのではないでしょうか。私にとってコンピュータは絵を描く道具として存在しました。だから私の考え方は絵を描く人に偏りがちです。それはお許しください。

実際にネット上には、スキルの差を超えて、デジタルで描いた絵をアップしている人たちが交流を深めています。私の娘たちもそれで仕事を得たり、新しい出会いやスキルアップの機会を手に入れています。様々なCriationは、ネットを通じて人と人をつなぐ一つのきっかけになっているでしょう。

しかし、今の日本では、コンピュータをCreation(文書・音楽・物づくりなど)には使わず、Communication(チャット・ゲーム)にはすごく使っているという調査結果が出ているそうです。あれ?惜しい!【C】で活用率が上がりそうなのに!だって日本人はモノづくりが好きな人が多いのではないでしょうか。

 

この活用は、授業でもそうじゃないでしょうか?

「入力は手書きでいいよね」→タイピングができないから従来の方法に寄せる。そのために手書き認識という技術が生まれました。

これは開発側の技術は上がりますね。これまでできなかったことをさせるために考えますから。利用者側はどうでしょう。文字を書くだけ、編集なし、複製なしの使い切りなら、紙にペンで書いた方が電気もいりませんし、いつでもどこでも書ける。一般の利用者のコンピュータによるCreationのスキルはあまり変化しません。手書きは画面内で書ける・読める文字数にも限界があるし、文章をコピーしたり入れ替えたりするには便利ではありません。コンピュータが人間に合わせて、非効率的なことをなにがなんでもやることを人間がコンピュータに強いているようにも感じます。

しかし手書きの機能は私たちアートを作る人間には画期的な発明でした。コマンド入れてプログラムしないと書けなかった自由な曲線が、ペンで描けるなんて。これは創る人にとってはすごい恩恵をもたらしました。

一方で、文字入力は長い文章を書くことを考えると、昔の小説家に象徴されるような、原稿用紙を書いてはぐちゃぐちゃと丸めて捨てて、また書く、訂正線を引いたり、修正液でけしたりしてまた書く。汚くなって出版するまでに清書や活字化や長い時間を要しました。でも今はちがう。文字データになっていれば、清書も楽々。書籍にするのもデータからできるから紙に手書きに比べ作品はどんどん世に出せます。

だから文字データで文書を書くことは人に仕えたいものを作るのには必要なスキルだと思います。

(売れっ子作家は休みがほしいからスピードいらないと思うかもしれませんが)

 

次に学校特有のアプリとして、よくある機能が「子供が書いたものを集めたり、配布したり、提示したり」→Communicationの部分での活用であり、Creationではないと感じます。

でもこれまでの作業時間を極端に短縮して、その空いた時間を有効につかえる授業に組み替えられているなら、意味のある使い方です。前述のこどものCriationが素早く共有されることでほかの子にも学びにつながる刺激になるなら。

 ここで、だれかの作ったものをみんなに共有することによるいい面と悪い面があります。

良い面は、なにも思い浮かばない時にヒントをもらえたり、これでいいんだという安心感を得られる点でしょう。

しかし、物を作る身としていつも疑問になってしまう点が、なんでもみんなで…って一人で考える時間を与えてくれないことです。

作る人間は自分で考えたい人が多いです。それもじっくり。そして自分なりの主張があって作るものに他人の手が入るのを極端に嫌います。

また、自分の思いついたものや試行錯誤の軌跡を人に見られたくない、「鶴の恩返し」みたいな「できるまで見ないでね」という気持ちがあります。なので、共有は必ずしも良いところばかりではないのです。

 

そういう意味もあって、学校でCreationのためにコンピュータを使うシーンとして昔から思い浮かぶのは、「お絵かき」「名刺やカレンダー作り」などがあるかと思いますが、よく見るとこれまでのアプリには「何かを作る」ことにも使える機能があるのに、なぜパソコンの操作練習のためにしかやらないか?というと、今の日本はとてもやりにくい環境にあるからだなと思っています。

 

自分自身の「好き」を作り出す力は人間にしかできないことなのに、「好き」を作るのではなく、もらうのを待つ人ばかりになってしまいそうなのが今の日本なのかも知れない、そう思いました。

作る側も誰かの「好き」を作るのが得意なのが日本の特徴だと感じました。

でも、それはこれまで「人の役に立つような人間」を作ってきた日本の教育が作り上げた人の中で、作る技術を身に付けた人たちです。

作る技術は貰うだけの人よりは高まるけれど、いまや平面だけでなく、立体も、コンピュータで作り出せるようになってしまったから、誰かが欲しいものを作る技術は、手足の運動能力に左右されるものは価値がなくなっていくような気がします。

だから形があるものを作るのではなく、それを作り出す技術を作る。多くがコンピュータの力で解決されていっています。だからこの中を司るプログラムを作れる人、そしてプログラムもそのうち自動でつくられるなら、それのもとになる人は誰でしょう。

 

それは「アイデア」がある人ではないでしょうか。

これは人間から生まれるものかなと思います。

自分のアイデアは、変に理詰だとつまらないものになってしまう時があるなと日々反省です。アイデアは直感も含んでいて、実際にやってみないとわからないものでもあります。

だから「アイデア」不完全であり、「アイデア」は試さないといけない。

試して初めて「著作物」になるのですよね。試したものにはその人にとっての成功と失敗があるかもしれません。しかし、「偶然」というのもあります。

二度と作れないものがこの世には沢山ありますから。これが人間の生きる楽しみであり、驚きや幸せになるのかなと思うのです。

 

デザイナーとアーティストの違いという話もよく目にします。違い、あなたはどう思いますか?デザイナーは「問題解決」つまり「あなたが望むものをつくります」であり、アーティストは「問題提起」「私はこれがいい、あなたはどう思う?」なのかなと自分では納得しています。答えはない。展覧会をやる人やネットに上げる人は、社会に「これどう思う?」と出しているので、「好き」と「嫌い」に別れれば一定のファンがつき、お金になる。でも「興味ない」となれば商売にはならない。今はここにマーケティングという技術を売る人がいて、それがまた一つの商売になってお金が流れているけど、これもなかなか思ったようにはならないですね。売る人の理屈で自分の主張を曲げろと言われてしまう時もありますから。

 

アーティストの作品には好き嫌いが伴うから、私が気持ち悪いというものも作って世に出ていても当たり前。誰かが気持ち悪いから出すなという権利は無いと思います。答えはないんですから。見たくない人は見ない権利もあります。

 

そして、自分で作らないものに対しては、自分の満足を求めて購入をするでしょう。

「好き」だから不要でもやたらと買い集めたり、試しては使わずにため込んだり。

作る側の人も自分で作っていないものは、お気に入りが決まるまでたくさん買ってしまったりしますね。試して「お気に入り」を見つけたいから。

そういう意味では断捨離で有名な方々は「選び方」を極めた究極の消費者かもしれません。自分はダメダメ消費者なので、家がちっとも片付きませんが。

 

消費者は誰かが提供する「好き」が現れるのを待っていますが、提供者は職業である場合、ひとりのためにいつまでも商品は作り続けられない。しかし、消費者は「好き」がなくなってしまうと怒り、悲しみ、また次を探す。同じものをずっと好きでいられないのは、満足していないからで「好き」が枯渇している人たちは、「好き」を手に入れる近道を教えてくれる人に熱狂的についていくのでしょう。

 

ここで、学校はこの「好き」に対してどんな社会的役割をもっているのか?と考えてみました。

これまでの学校の学びは、誰かの「好き」に応える技術。

しかも、その中でも「誰かの好き」ではなく、大人はもう答えがわかっている、誰も好きでも嫌いでもなく、普遍的な答えを出す方法を学ぶ、つまりお絵描きで言うならなぞり書きの練習だったと思います。お手本の線からいかにはみ出さないかを競う。白いところも埋めたくても、それはいたずらとみなされ止められる。無駄なく、素早く、はみ出さないのが一番。

 

しかし、この学びが全て間違っているとは思っていません。なぞり書きや模写は筆記具や画材という便利な道具を使いこなすことと、目から入った情報を頭を通って手に出す運動の訓練ですから。絵描きの自分としては、絵が上手くなるにはたくさん描けというのは、その運動能力の開発のためだと思っています。だから最近描かなくなって私は絵が描けなくなったと感じてます。残念ですが。手を動かして作るものは物によってはスピード、質ともに機械を超えます。なので、手で描きたいなと思うこともあります。

でも、センスや感覚は記憶に残っているので、パソコンがあれば、概ねうまく絵が描けます。肉体の衰えだ部分をパソコンが補ってくれますから。でもどう表現すると、本物に近い絵になるか、どう表現するとカッコよく見えるか、どう表現すると自分が綺麗と思う絵になるかわかっているから描ける。この目から入る情報が手に伝わる前に、頭の中で変換される部分に個があるのです。その変換で、人は「好き」「嫌い」を決めるのだと思います。

しかし、そこに、他人からの評価が加わったとき、自分の「好き」は変わります。外からの「これ気持ち悪い」「下手」「変なの」という言葉が、「好き」をねじ曲げてしまう。出せなくなって隠します。こっそり描き貯めたり、描いては捨ててしまう。失敗作と言って。

 

だから私の個人的な考えとしては、学校は「好き」を作れるようになるために、その方法を学んだり、「好き」の種を見つけるために色とりどりの経験をするための道具や機会が潤沢にあるべきで、社会に出たら存在するはずの様々な道具があっていい。学ぶ機会に経済的な格差が既についてしまった今、学校はそれを公的な機関としてそこに来るこどもに平等に機会を与える役割を担うのは良いことだと思います。

そのために公費でこどもたちにPCを配る。でも、これが前述の通り、理由のない制限や機能の足りなさで、CommunicationにもCreationにも結びつかないなら、意味がなくなってしまいます。そして、これを大人がその使い方を理解しないままに制限をかけたりしたら、こどもたちは可能性を手に入れられない。

 

だから、ITがCreationと結びついた時、その子の選ぶ「好き」は誰も制限する必要はないのだと思うのです。だから人の「好き」に上手い下手をつける必要はない。しかし、もっとやりたい、もっと自分の技術を突き詰めたくなった時、学校はもう手を離していいと思っています。

そこで初めて「チーム学校」という言葉をかりるなら、学校内ではなく、学校の外で突き詰める場所を提供する外部協力者がいればいい。

その子がその道を望んで突き進めるなら、もっと早く学校を卒業して社会に貢献してもいいのではないかとまで思います。いつでも学校に戻ってこれるならもっといいなと思います。

 

他人の「好き」が自分の「好き」とは全く違っても、その違いを「悪い」と言う必要はなく、「この人はこれが好き」という情報でそれ以上でもそれ以下でもない。
人間の生理的な感覚で心地よいと感じるものは「好き」と思われやすい。
心地よさにも個人差があるから、似たもの同士は自分の「好き」で繋がり、また心地よいから集まる。認め合えるから。または自分がすごいと思う人に存在を認識されたいからって人もいるかも。


しかし、この「好き」の集まりが大きくなってきた時に、周りに同じ「好き」を持つ人ばかりになってくると、違う「好き」が現れたときに、共通点を探そうとする。「赤とピンクはどっちも赤が入ってるから赤の仲間だよね。混ぜると赤が濃くなるけど綺麗」
でも真反対の色だとどうか。絵具の場合、緑と赤を混ぜると濁った茶色で、あまり綺麗に見えないと思う人が多いかもしれない。
でも、赤と緑はチューリップを描くときによく使われるように、綺麗な配色として感じられる人が多いと思う。
別々なら綺麗。混ぜるとうまくいかない。そばにいると合わせて綺麗。

赤に近付きたいから混ざるのも個、似ているけど混ざりたくないのも個。全く違うなら緑の仲間で集まるのも、一人でいるのも。

 

今、学校が「好き」な人はどのくらいいるだろう。なぜ文句をいいながらそこにいるのだろう。こどもたちに聞くと、「カーストやいじめがあるからあまり好きじゃない。」という子もたくさんいる。教育を変えるヒントはこれなんだろうなと思います。すべては考え方。

これを広めてきたのも学校ではないでしょうか。全国にこれだけの拠点があって、国が決めたことを元に作っていくカリキュラム。

これが機能していれば、こんなことにもなっていないかもしれませんし、国が出している方針は果たして現場に伝わっても腑に落ちる説明になっているのか?
こどもや保護者は「法律で決まっているから」行かざるを得ないので行くのでしょうか。長い間積み重ねてきた歴史の中で「学校に行くのは当たり前」だと思っているからの方が近いのではないでしょうか。法律だからなら入学祝いとか入学式とかを華々しくやるのは、国の戦略か?とまで思ってしまいますよ。

 

このGIGAスクール構想において、私たち現場はあらがうこともできずきっと進んでいくでしょう。でも「こんな予算じゃ何年も持たない」ではなく、「OSはどこがいい」でもなく、ITがICTになるように、CriationとCommunicationのためにITを活用する知識や技術、そして考え方というものを広めようとしていないと、きっと誰にも伝わらないのだとおもったのです。

ICT支援員って何をすべきなのか。SEレベルでコンピュータの専門家でないととか、人柄がよくないととか実は漠然とした基準しか語られていないのです。

ICTをI【C】Tとして、こどもたちが未来を生きるためにその恩恵を受けるには、考え方を伝えられなければならない。

だからICT支援員さんたちに必要な理念を伝えたい。

もちろん一定レベルのスキルは必要です。人と関わる以上そういった能力も必要です。でもこの「理念」を一つにしなくては多分どんなにPCにたけていても便利な小間使いにしかならず、これまでそうやって来た支援員さんは、先生でなく、自分のスキルがどんどん高くなって便利で頼りにされるのに、学校はかわらない。

そんな風に何十年も堂々巡りになっていったのかなと思っています。

ICT支援員はCriationとCommunicationの部分を支援できる知識があるといいのではないかと思っています。

それにはITの知識だけではなく、情報モラル・セキュリティ・クリエイティブなことに関心があることなども必要かもしれません。

だから自分の会社にはSTEAM部門を設けています。

STEAM部門は幼児教育へのSTEAMプログラムの提供です。

私の会社はICT支援員さんになる人だけでなく、いろんな方と大きなコミュニティを作って、この学校を中と外からサポートする、そんな会社を作りたいのだと思っています。