すべての学校が「新しい学校」になったらそれはもう新しくないよね

NHKあさいちを見て、広島にできた新しい公立学校の校長先生がご出演され、その取り組みが特集されていた。民間から横浜の校長になり、そこから抜擢されて広島の教育長に抜擢され、全寮制の学校を作られた。業界では有名な方だ。

 

新しい学びを目指す教育業界の隅っこにいるものとしては、最近注目され、次々と生まれるこう言った新しい学校に、ただ単純に「すばらしいーパチパチパチ」と思うだけでは思考停止だなと思い、少し考えてみた。

まず初めにへそ曲がりの自分としては、「学習規律」も合理的な見直しが必要なだけで、学習規律が悪いからなくせ!というわけじゃないと考えている。

 

⚫︎なぜ社会で生きていくのにさまざまな年代が混じるのに、学校は横並びにするのか
→縦割りクラスを実施これは大賛成。

私がご縁があって毎年訪問している福島の幼稚園がこの縦割りですばらしい教育を実現している。その効果や意味が体感できているから納得だ。


⚫︎その時学びたいやりかたで
→座っても立っても寝転んでも
→紙でもタブレットでも
これも娘たちに聞いたら「正しいと思う。これがいい」ただ、娘たちはこれまでのように全員座って紙のドリルに取り組まされても、死ぬほど苦しいというわけではなく、つまり馴染んできた子供だ。(学習方法合ってないことに気づかなかったから算数が苦手なのかも知れないがそれは今更言われてもである)

 

これまでのように、ドリルなどをやるときは、静かで一人で考えたい人だっている。教えにきたりお節介をされたくない子もいる。これまでのスタイルの方が能率良く学べる子だっている。そして、それを古いとか悪だとか単純に振り回されることこそが、思考停止だと思う。

 

構われたくない集中型の子は、ちょっかい出したり騒ぐ子が教室から摘み出されると、「平和が訪れた…」と感じていたはずなのだから。

摘み出される子にも言い分があると考えるあまりそちら側に加担しすぎて、じっと待っている子たちには「待ててえらいね。ありがとう」なんて言ってはもらえてないんじゃないだろうか。


⚫︎こういう学校が拡がれば良いか?
→それも、やはり子供に合わせたものであればこれに限ったことではない。

この学校の校長先生がこう語られたことが個人的には嬉しかった。近頃「多様性」が叫ばれているが、安易にこの言葉を振りかざす人が増え、逆に偏った「多様性」だと感じることが増えているから。先生は教えない!とかいうけれど、尊敬する人に教わりたい子だって居ると思う。


⚫︎好き勝手なことをし出す子がでませんか?
→好き勝手をしていいという意味ではない
気になるのは、この学校が公立でありながら選抜だということ。

算数ドリルの時間に部屋でジャンプしてドリルはやらない!と言ったらどう対応するのかを知りたかった。選抜だからそういう子はそもそも入れないのではないのか。そこまでの舞台裏は見えなかったからここが疑問として残った。

 

つまり、これはこれで、ルールはあると思う。それがここの「学習規律」なのではないか。
身体的に非合理的な全員背筋を伸ばして硬い椅子に座って…というのは学習規律としてそれがそもそも「できない体」の子には拷問だろう。
でも、同じ学校内に通い、同じ制服を着て、決められた時間には英語で話すことがルールとして存在してる。何にもないわけじゃない。算数の時間にその部屋で走って身体を鍛えてます!という子は見当たらなかった。

 

学習規律をそれこそ非合理的に、裏付けやビジョンもなく全部なくせ!と言ってるのではないのだと言うことが伝わらないと、これまで学習規律を一生懸命守ってきた保護者や子供、つまりそれを我慢だとしても守ることができる体と心がある側の人間はそれによって学習環境が守られてきた人もいるのだ。

 

そう言う視点で、これまで我慢ができていた注目もされず支援もされない、派手にはしゃいでJKの典型のように思われるタイプでもない。かといって暗くて友達がいないというわけでもない、そんな我が子たちのような子供はどっちの教育スタイルでも構ってもらえないでいる。だから、「合わせる」ことに長けていくのだ。

本当の多様性を受け入れる社会になった時、我が子たちは自分の道を選べるか心配した。

結論から言えば、3人とも成人した私の娘たちは、逆に