論理的思考は何故必要なのか?

ここの所トラブルとクレーム処理をしていて、ようやく一つ大変だった案件が収束した。トラブルシュートはもしかすると一番好きな仕事かもしれない。だって頭の中で最適解を見つけるためにものすごく考えるから。

言葉を選び、相手の出方を分析して、相手の思考を予測して、納得してもらい、怒らせないけど、それ以上求める気にならないような答えを探すのは常に論理的思考だと思う。

ところで最近よく出てくる「論理的思考」はなぜ必要か?

自分は割と子供の頃からそれを意識していたと思う。我が子たちも少し近い。

怒らない、泣かない、あわてない。大きなトラブルでもまたすぐ立ち上がる。

レジリエンスとか色んな言い方で表現される力だけど、これらの根底にあるのは論理的思考力なのではないかと思う時がある。

まだ子供が小学生くらいの頃、近所の人たちから「おたくのお嬢さんたちは姉妹が仲良く喧嘩もしなくていいわね」と言われてきた。

「お母さんも大きな声を出さないのがえらい」とも。

それは今もずっと続いていて、昔はなぜうちの子達は、私も含めて喧嘩をしないのか。泣かないのか。激昂しないのか。10年くらい前までは漠然と「そうする理由がないからなぁ」と思っていた。

一つには健康で、経済的にそこまでは困っていなくて、親戚や親もみんなごく普通だが健康で生活していた背景があって、恵まれていたのもあるとおもう。

でも子供が高校生くらいになって、その理由が見えてきた。「考え方」の違いなのではないかなと思うようになった。

私も実際人前で泣くこともなければ、喧嘩もしない。まったくもってくじけない。仕事でクレーム処理がやたらと回ってくるのもそのせいだろう。(激怒してるお客さんの対応ばかりやるのはいつだって初回はこわいから、怒らせないでほしい)

 

クレームだけでなく、働く上でジェンダー問題なんかもよくある。性別、年齢、その他差別問題なんて今もいつでも私たちの目の前にある。おばさんにICTなんてできないだろうという偏見は今もそこかしこで出会う。ろくに会話もしてないのに、頭からばかにされることもある。ちゃんと説明できても「女性なのに珍しい」とか未だに言われる仕事だ。

ちょっと若く見えれば今度はつまらんマウント取りに来る。昔を知らないだろうとか。知識がないだろうとか。

女が働くっていうのは常にそういうものとの戦いだ。男性の中でももちろんそんなのはいっぱいあるだろうから、女性がジェンダー問題ばかりに執着するのもあまり好まないけれど。

子どもが偶然全員女だったので、昔友達が色んなものをおじいちゃんにねだって買ってもらって、娘に自慢していじわるされた時、(スネ夫みたいなかんじで)「この世にある色んなものはほとんどが人間が作ってる。他の人間に作れるものが、これから大人になるあなたたちに作れないわけがない。だから欲しければ作ればいい。ましてや、我々は運良く女性に生まれたから、うまくすればなんと人間すら作れる。すごいな私たち」と言ったことがある。

 

そして、そんな外からの攻撃に負けないのは精神論でもなければ、みんなの声を集めることでもない。

変わらぬ事実とつじつまの合う論理。それが自分への信頼になり、自信になり、それでこれまでも、これからも闘い、そして勝つのだ。

子供の頃から論理的思考がもらたすものは、そういうものだと私は思っている。

差別される側にとって、論理的思考は武器でもある。恫喝や侮辱に心を揺らさないのも、論理的思考が必要。自分をコントロールするためにこの考え方はあるといっても過言ではないと思っている。怒りの感情が起きるのは、その前に別の要因があるからで、それは例えば自分の劣等感や、落ち度、体調不良や家庭不和などだったりする。それをわかった上で、自分は何故今むかっときたのか。相手はどんなつもりでそう言ってきたのか。相手をやりこめる必要はあるか。あるならどうやれば完全勝利できるか。逆に自分に落ち度があるから恥を隠した方怒ろうとしていないか。そうやって考えると怒らないで済む。やりこめるのも冷静にやれるから勝てる確率は上がる。

 

ロボットやらコンピュータを操る人になるためではなく、論理的思考っていうのは、まさに自分自身を操るためにあるんだというのが私の勝手な自論だ。だから知らないことは調べる。新しく知ったことや、間違っていたことはどんどん書き換える。思考するための材料だから、知識は必要なのだ。自分の知識が間違っているかどうかの判断も自分でする。人に言われても証拠がなければかえないし、納得する理由があれば、相手の好き嫌いにかかわらず前言は撤回する。謝る。そうしてこれからも多分生きていく。数年後この話を全部撤回することもあるかもしれないけど。