「基礎体力をつける」ことの大切さ

2020年一人一台端末とか、プログラミング教育だとか、英語だとか、それはもう変革の嵐で学校現場は大変そうです。日々現場で、SNSでたくさんの先生方のご意見や実践を拝見しながら、しかし私はずーっとスッキリしないまま、毎日を過ごしていました。

 

バイスもソフトウェアも、使い方や用途は人それぞれ。日本も、自ら学べ、答えは教えない、自分で考えろみたいな風潮が最近強いですが、しかし、まったくの自己流は必ずしも良いとは言えません。
それがここ数年個人的に実施している、「Excel効率化研修」の人気の秘密でもあります。(地味に大人気です。ご依頼いただけたら行きます。)

自分のICT活用については自分の考えがあるものの、学校のICT活用についての現場や外部からの様々働きかけについては、ずっとモヤモヤしていたのですが、そんな時ふと昨夜見たTVで偶然見かけた、「イタリア人ってみんなおしゃれ。なんで?」という疑問の答えに驚きました。
イタリアでは、中学校は私服になるので、自分たちで服を買いに行くようになるそうです。しかし、洋服屋さんで、勝手に商品を触ったりするのは基本タブー。お店ではお客様一人に店員が一人ついて、着こなしなどをアドバイスするそうです。 なので、イタリア人がおしゃれでなくなるのは、部屋着でくつろぐ時くらいで、外に行くときはコーディネートを考えて服を選べるように、子供の頃になるそうです。なんかうらやましい。

 

人まねでないオリジナリティを尊重することとか、原宿で昔から見かけるような奇抜な服装はそれはそれで文化ですが、お洒落な服装への理解は、お洋服の手入れなどにもつながるので、大事なことだと思っています。高い服を揃えなくても、いい生地を見分けたり、身体に合う服、自分に似合う服を選べるセンスは経済的にも得をします。全身ブランドでもダサいと高価なものに見えなかったりしますし。生地や縫製の良さで高級ブランドを選ぶ方もいますが、いかにも高級ブランドとわかるものは、やはりそのネームバリューにあやかりたい人も多いと思います。

 

前置きが長くなりましたが、今私が直面しているもやもや問題は、ICT支援員のスキルの底上げです。スキルと言ってもICTだけじゃなく、です。
支援員さんたちに雇用元からスマホ(今はガラケー)を支給していただく交渉をしているのですが、私としては自分のパソコンやタブレット持ち込みが難しい学校もあること、情報共有のためのツールを利用するのにスマホがあればストレスが減ることなどが理由なのですが、しかし、その反面、支給したとして支援員さんがすべてそのスマホを本当に使いこなせるか?というと、全く違うのです。操作やアプリを知らないとかではないのです。個人では持ってますからね。ここがいつも言う「ICTの基礎体力」。


例えばLINEで情報共有をしたとしても、いつもいつも答えるのは決まった人で、メンバーがたくさんいるのに、誰もがただ、リーダーに問い合わせるだけで何度教えても学習せず、また同じ質問を繰り返す人が多くて、「もう以前聞いたことなどはボットに返事をさせることはできないか」なんて話があるリーダー役の人から出たくらいです。

ちょっと私的にはがっかりしました。

ここで問題なのは、そのチームはみんな個人で高価なスマホもパソコンももっていて、キャリアも10年超えるようなベテランばかり。現場では愛されていますし、感謝もされています。なのにこれはどういうこと?と言いたいのです。


スマホを持っていても、ググるということを知らない?まさかと思いました。

また、LINEは遡ればトークの履歴が検索できること(これはメールなどでも検索機能がありますから、支援員なら「あるかも?」と気付いてもいいと思います。)を考えない。自分が普段使う、いやLINEは利用者の多さでいったら今や日本では誰もがと言っていいくらい使われているアプリなのですから、深堀しておいて損はないはず。
そして一度聞いた話を保存したり、整理しておかない。せっかく文字で残っているのに。
このあたりはすべて情報リテラシーの部分です。
LINEのトーク履歴はデータの宝庫です。
これは設定からテキスト形式で吐き出すことができるので、私は自分のチームのトーク履歴は時々落として傾向を見たりします。

 

LINEもすっかりメジャーなものですが、最初に書いた、Excelも得意不得意が分かれるツールのひとつです。Excelであれば、天下のMicrosoftが、誰もがやりそうな作業で「めんどくさい」と感じる部分に何も対応しないのだろうか?いや、何かあるんじゃないか?自分が知らないだけでは?と疑いもしないで、ただ、文句を言いながら手作業をしていたり、他人に頼んだり、聞いてばかりいて、負担を強いていたりしてませんか?ということを支援員さんにも問いたいのです。

つまり、BYODにせよ、一人一台買い上げにせよ、学校配備のパソコンルームにせよ、使い方をある程度は教えるべきで、デバイスを自由に選べれば良いわけではないと思うのです。意味のない暗闇の中での試行錯誤による学びは、遭難して、運よく無事生還した後に、なにかを学んだと言ってるのに近いと感じるのです。うっかりすれば死んでしまいます。帰ってこられず遭難したままになるかも。

ICT支援員をお勧めはしていますが、キャリアは関係なく、正直まだ基礎体力がちゃんとある人が多くはないことは、認めざるを得ません。

子供達もデジタルネイティブではありますが同じではないでしょうか?
服の着方と同じで、操作方法は知っている。
でも、肝心なことを知らずに、ただ闇雲に使えばそのうちお互い学び合うなんてことはないと思っています。現に、うちの娘の友達ですら、スマホはほぼ全員持っていても、いつもわからないことをググりもしないで娘にきいてくるので、うんざりして「自分で調べて」と言ったりするそうです。「調べればわかることがたくさんある」ことを、本当に理解しているようには見えないのが多くの「調べ学習」の実態です。

「調べるために、本でも、パソコンでも、人に聞いてもいい」と先生方はおっしゃるそうですが、調べることをするために、本は字が読めなくてはいけません。英語が読めればもっと広がるでしょう。パソコンなら文字が打ち込めないと調べられません。フリックや音声も対応してきましたが、それでも、娘曰く「確実で速いのはタイプすること」。そのためにキーボードからの入力はできたほうが便利なのです。検索をするなら、コンピュータが理解しやすい検索文字列はどんなものかを直感的に理解するために、コンピューターの性質を知っている方がいい。そして、人に聞くならコミュニケーションのための話す力が必要で、その後に集めた情報を整理、保存したり、連携させたりすることも必要です。
「情報を得る」という操作ばかりができて、そのために必要な技能や、得たものをどうしたら欲しい結果に結び付けられて、さらに再利用することで、効率化するのかまでをどこかで明確に教えていかないといけないのではないでしょうか?

学校教育にこれらのことは多分元々あるものなのでは?と思っているのです。なのに、コンピューターが挟まるとどうしてインプットだけになってしまい、その後が今一つなのでしょう。最近では「アウトプットが大事」なんて言ってますが、それがいきなり「プレゼン」するだけで、肝心なインプットからアウトプットへ行く前のところ(どう情報を集めるか、それをどう整理するか、自分の考えに落とし込むかなど)をすっ飛ばしているように見えてしまうのは私がまだまだ学校がわかっていないのかも知れませんが。

 

だらだらと書きましたが、もう一度、「調べる」って何なのか?大人も子供も考えてみたらいいのかも知れないなと思った次第です。