こどもはできる

今一番もやもやしてることがあります。

 


先日1日新人支援員さんについて小学校支援をした時、4年生ではじめてタブレットを使うクラスを支援しました。

タブレットのカメラで撮った写真は消えないように設定してありますが、すぐに取り出して見たい、加工したいときに、どこに保存されているのか?という話になり、調べたら少し深い階層にありました。

 


復元のかからないドライブを選び、その中のピクチャ→カメラロールの中にありましたが、ここまで到達するための操作は、エクスプローラ開いて、左側の一覧からドライブ選択→「ピクチャ」ダブルタップ→「カメラロール」ダブルタップです。

 


この操作、これまで現場に導入する際にちょっとでも階層深いと、「そんなんじゃ子供はできないよ💢」とか言われて拒否されてきました。

おそらく「子供が」できないという理由でなんとかして一発で見えるようにするために、さまざまな学校向けアプリには、特別なショートカットや、写真を見るためのすぐみる機能がついているものが多いです。

 


たしかに一部の子は、探す方法がこれまでどこかで出会ったアプリに準じているようで、それっぽい名前のアイコンをタップして見たりして、「あれー?ないなー」と言ってましたが、実際に一度教えると、そのクラスは、特別にリテラシーが高いわけではないのですが、次々に友達に伝えたりきいたりして、あっという間に全部の班で写真のありかをさくっとみつけて、個人フォルダへのコピーも、元データの削除もできてしまったんです。

 


ここで、またあの感覚。もやっとする、あの感覚です。

「こどもはできるよ…?」

「しかも忘れないし、次の時忘れても誰かが覚えてて教えてくれる」

「うっかり操作ミスで削除しても、ゴミ箱にあるから戻せるとわかれば、他の人が使うから、と綺麗にするために、削除をちゃんとしてくれる」

うーん、やっぱりこどもはできるよね??

 


逆に、便利すぎるアプリが、この階層や自分の意思で自分のフォルダに保存する、コピーする、削除するを妨げていると感じてしまうのです。

 


ただ、タブレットが普通教室に来て以来、5.6年は経ちますが、その経験からここは絶対的に言えるのは、

「うまくいったクラス」「良い活用をしているクラス」は

●日頃から一人一台で触っている

●先生がすごくICT得意な人

 


…ではなかったのです。

もちろんすでに一人一台で、めちゃくちゃハイテク整備がされてる、そういう学校とは判断基準が違うのかもしれない。

でも、ICTの整備台数だけでそこまで学力が変わるならとっくに日本はやってなきゃおかしいでしょ。

 


結局その操作をわかりやすく伝えたのは「ICT支援員さん」もしくは「先生」

なので、

○簡潔な言葉で操作を伝えるは必須。

 


そして、何より重要なのは、

◎「学級経営」がうまくいっていること。

 


これまですごくいいな!と感じたクラスは、間違いなく学級が落ち着いていました。そして、「理に叶ったルール」(ここが一番大事!)があり、それをこどもたちが守っていた。デジタル化の前に学級で自分たちがやるべきことが子どもにストンと落ちていた。だから自信をもって自ら動ける。

 

こどもはできる!

できることなら小学校入ったらすぐに、操作を教えてあげたい。

やっては行けないことも早く教えてあげたいのです。

無茶苦茶な試行錯誤は、例えばこども向けプログラミング環境で無茶苦茶をやるなら、そもそも作られた中で無茶苦茶してるのだからそれはコンピュータにとって想定内。永遠に音が鳴り続けようが、無限に数が増えようが、コンピュータの処理の限界がくれば自ずと動かなくなるか、PCの処理の限界や無限ループにはいれば、何もできなくなったりするだけ。

 


それに対して、使い方がわからないマウスやキーボードを物理的にバンバン叩いたり投げたりするのを想定する必要なんてあるのだろうか?

コンピューターに限らず、人も物も全て物理的な破壊は致命的になる。

 

乱暴な破壊は試行錯誤じゃない。

岩を砕くのに叩きつければ破片は飛び散って自分にも跳ね返るように。

逆に分解は別の意味をもつと思う。

なぜ岩を砕きたいのか。砂利にしたい、石垣にしたいなど、目的が明確ならなるべく無駄が出ない崩し方で、なるべく安全に崩す方法を探す。もちろんそこでやってみて飛び散るのは正しい試行錯誤で失敗ではない。考えた上でやってみたら違ったのだからまた考えればいい。

 

「こどもはできる」

ICTに関しても学校はいつのまにかこどもたちのできるを上から蓋をしてしまっています。

やっていいのは想定内のことのみ。

飛び出してしまう子まで自分たちの手の中でなんとかしようとするから無理になる。その子は我々の想像の遥か上をいくのかもしれません。

そうしたら、学校はもっとその子が知るべき一流の世界を見る必要があるのだから、そこと繋げてあげられるネットワークを持つべきで、それは安っぽい癒着ではなく、科学、芸術、スポーツ分野においても学校はいつでも社会の一流にその種になる子供を繋げてあげられるような場所になればいいと思います。

学校の中に無理に押し込めていないでしょうか。

狂気を感じるほどの一流の情熱をもっとこどもたちは感じるべきだと思うのです。

学校は中途半端な社会とつながるのではなく、一流と繋がる必要があると思った次第です。