できない人の先回りをすればもっとできなくなる

チーム学校自体はいいことなんだろうけど、学校がアナログ故にもっと自由な場所だった、そして限定された人たちの場所だった時代の大人が学校に再び踏み込むことは、いろんな意味でとても難しいなと感じることがとても多い。支援員さんの育成をやっているとまさにそれを感じる。

 

支援員さんに必要な知識は果てしない。最新のネットワークサービス、クラウドLTE、新しいソフトウェア、新しいOS、新しいデバイス

変わりゆく教育の考え方、学校の形、海外はどーだこーだ、産業界はどーだこーだ。

新しいものだけでなく、そもそも授業とは?なんて話も出てくる。

多様な人を相手にするから、人権だ、著作権だ、個人情報だとまた難しい。

そうかと思えばトラブルシュートはユーザーレベルのソフトへの対応どころか、ネットワーク障害、セキュリティの問題、SNSから情報モラル…年々「知らんがな」というところまで聞かれてしまう。

 

古い学校の考え方でこの仕事をすると、一番困るのは子供たちへの対応の仕方だったりする。

自分の知識を教え込む、失敗をさせない回り込み。意味のないルールの押し付けなども大人は気をつけないと自分の子にやったことを見直さない。


さて、学校にICTのサポートとして入るために全てを支援員さんに求めるのは無理だと思う。それなら、人間を増やすしかない。

しかし、ICTは一括りにされがち。学校に、特に私立に入ってみるとよーくわかるが、こんなにさまざまなハードやソフトウェア、そしてサービスが出回っていることがまた更に支援員の仕事を困難にしている。

 

「何もできない支援員」「残念な支援員」などと言われる不本意な現象の原因は、もちろん支援員の募集時の問題やその後のトレーニングが貧弱であることや、待遇など、様々な問題が壮絶に渦巻いているのだけど、ただ、ただわかってほしいのは、この原因の一つはその人のスキルの低さや守備範囲の狭さだけが全てではなく、未だなぞの学校限定ソフトに依存する学校ICT界の悪い部分もあることにちょっとだけ目を向けて見てほしい。

 

Officeのように、ある意味もう世界中のビジネスシーンに浸透しつつあるソフトウェアすら、学校は使いこなせていないのに、いや、別に使いこなしているところなんて、企業でもほぼ見たことがない、つまりこのOfficeソフトは、いずれにしても突っ込んだ使い方は一般的に誰も必要としてないんじゃないかとさえ思っている。けど、これがもう20年くらいスタンダードになっている。

 

使いこなせばなんでもできる盛り込みすぎのソフトだけど、実はみんなその一部分を見て都合のいいところだけ使っている。そして同じソフトだから互換性があるので、Googleが似たようなのを出したとはいっても、ある程度互換性を保とうとするのは、つまりOfficeソフトが万能で、みんなが当たり前に使うソフトだということなんだと思う。

 

まるで、目の見えない人数名に、象を触ってもらったら、みんな違う生き物に見えたというのに似ている。みんな自分の都合の良いところだけ使ってるから、例えばみんなが「Excel」と呼ぶそれは、人によって全く違ったソフトになる。

 

学校の先生が日頃やっているお仕事は、実はとてもクリエイティブで、多様性があるので、その作業は、デジタルでやろうとすると、まさに使いこなさないとできない作業だったりする。

しかし、本当はそのソフトには王道があるのに、誰にも教わらずそれぞれが手探りで、自己流で、なんとかデジタル化しようとしているのがなんだかもやっとする。機能はあるのに知らないで時間を無駄にしていると感じることも多い。

Officeがこれだけ広がってるなら(ちなみに便利機能の有無はそれぞれに違うものの、基本はMSもGもさして変わらない。ごく普通に読みやすい文書を書く、計算をする、その基本はどのソフトでも変わらず、準備された効率のよい操作をすれば、作業時間に関しては最短距離もほぼ同じだ)もうちょっと王道の技を、せめて基礎の基礎だけでもちゃんと習って始めたらどうかなと思う。教材も安価に手に入るし、そんなに時間はかからない。

 

そして、これらのコンピュータを使った校務のお仕事や、授業の中でのコンピュータ活用も、属人的な使い方ではいつまでも広がらないし、特定の先生が何か作っても、その学校だけで、先生が異動してしまえば、またわからなくなる。そんな繰り返しではシステム化できないから、もっと簡単にしてあげようと、またお節介にも、現場の動きがわかってるわけではない、もしくはある限定された地域のやり方を参考に、それがまるで世界の常識かと言わんばかりの、仕組みの見えない特殊なソフトウェアをコンピューターに被せて、それを使わせるためにサポートが入るという形がどうしても良いとは思えない。いや、絶対反対したい。つまり、よくある「使えない支援員」というのは、こう言った特殊なものをサポートするだけの人の場合が多い。逆に、こういった特殊なソフトは一般人には触るチャンスも意図もわからないのに、支援しなくちゃならなくなる。悪気はないのに、勝手に「ICT支援員」なんて名前をつけられて、「使えない」なんて言われてかわいそうとしか思えない。

 

ICT活用が自由であるなら、自分なりの使い方をしている先生やら、子供からその人の常識で、質問や依頼が来るのを、全て受け止めて、その人その人に合ったサポートをしなくてはならないってどれだけ大変かわかるだろうか。

いつもみんなに「ごめんね」と思いつつ、たくさん資料を出したって、一朝一夕にわかるわけない。

「ICT支援員」ができるべき業務の範囲やレベルなんて、果てしないし、知らんがな!って言いたくなる質問ばかりが降ってくるのだ。

 

この果てしないなぞの「文教向けソフトウェア」戦争の中で迷惑を被ってるのが先生だし、支援員さんだと思う。そしてひいてはそれが子供たちにも無駄なソフトの使い方を教えて、仕組みなんて分からなくて良いってことになっていないか。そんなソフト社会に出たらどこにもないぞ。コンピューターは進化していても、大元の仕組みは変わってないんだから、知るべきはそのソフトじゃない。

 

プログラミング教育ってそういうのからの脱却じゃないのかな。

ただの消費者にしかならない、使い方の練習から転じて、やりたいことを叶えるために仕組みを理解する学びになっていくのだと思ったのに、相変わらず「これいいよね」と皆が推すのは、そういうものじゃない。相変わらずインスタントが大好き。時間がないっていう呪縛から逃れられない限り、きっと変わらないんだろうな。

 

教材を見比べた時、この道具は、理屈なんて分からなくてよい、つまり忙しい学校での時間をより多くするために使いたいと思って使うならそれはそれでいいと思う。ICTは時間と距離を超える。それはすごいことなのだし。

これまでできなかったことが実現する。これもすごいことだし、それによって学びがより良く変わるならいいと思う。

でも、それと仕組みを知る過程は別だと思ってしまうのだ。

使う側がそこをわかった上で、使わないと、なんのためにプログラミング教育なんてやることにしたのか益々わからなくなってしまいそうな気がする。ICTをスピードアップ、効率アップの道具だとして使うのと、ICTそのものの仕組みを知ることは別建てにするより、一度でわかるほうがいいんじゃないかと思う。

 

一番大切なのは学級が落ち着いていて、子どもが待てる、しっかりと聞ける、聞いたことを理解する。そして実行する。そのための合理的な工夫は必要だが、それはもう幼稚園という社会に入った時点で経験をスタートして欲しいと思う。小学校にあがるより前に、待つ事、聞くこと、そしてやってみる回数を増やすこと。

 

自分でやってみる、失敗する、そういうことは、大人がなんとでもしてあげられる幼児期にこそチャンスを逃してはならないのではないかなと思う次第だ。

あなたは目の前の子供の先回りをしていないか。そしてトライする必要がないところで放置していないか。待てる、聞ける、やってみたい好奇心を潰さずにこれを実現する方法はあるのだ。待てる、聞ける子は学校に上がった後に溢れるような体験をするチャンスを手に入れられるだろう。

大人が先回りして見えなくしていいものと仕組みをゆっくりとしるべきものの選択を間違えないで育てていけたら。そうしたら日本の教育ICTもきっと変わるのではないだろうか。