公開授業をすること

ICT活用の公開授業って公開するために良いものにするんじゃなくて、良いものがあるから公開するんじゃないのか?だったらこれじゃないと思うのはシロウトだからだろうか?支援をするなら、先に良い授業を見せてもらって、それを、さらにICTで効率的、汎用的なものにできれば良いと思う。順番が逆だからダメなんだとずっと思っている。しかし、良い授業というのは、美しいアートと似ていて、作った本人でないと、再現できなかったり、一般化すると品質が保たれないこともあるし、それですでに良い授業なら、シロウトのICT屋が余計なことは言いづらい。その先生自身が、ご自分の授業をさらにICTを加えて、味方につけて、アップデートしてみようと思わないと踏み込めない。これはかなり昔(もう10年くらい前)個人的に参加した教育イベントで、登壇したある先生が「ICTでもっと良い教材や授業方法を共有しましょう」と発表しておられたのに、あまり反応が良くなくて、「こう言うと嫌われちゃうんです」とおっしゃったのを今でも思い出す。でも、誰がやっても良い技術というのは残っていくと思う。
将棋マニアの長女から、先日羽生さんが竜王戦に勝ったとLINEが来た時に、実は藤井さん(そうたくんではない)という棋士がいて、ファンからはてんてーと呼ばれ、botまでいると聞いた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/藤井猛
この人は今は全然勝てないそうだが、この人の考えた戦法は羽生さんも使っていて、それで藤井聡太君に勝ったみたいな話をきいた。(詳しくない私の調べなので間違ってたらすみません)娘曰く、「羽生さんは戦績が歴史に残るけど、藤井さんはその戦術が歴史に残る人だ」なるほど。
ICT活用に限らないが、その先生がすごい、その先生の授業だからすごいと名前が残るのと、その先生が考案したICTの使い方、授業の進め方が○○法とか○○メソッドとかなんでもいいけど、わかりやすく、うまくいく戦法として残るのとは違う気がしている。その人が残るのは姿形や名言とか、好きな食べ物とかその人個人のWikiみたいなもの。手法は、そこにその人の名前が付いて入れば、うっすらと名前は残るだろうけど、顔もどんな人となりなのかも残らなかったりするが、やり方として広がるのはこちらのほうだろう。
前者に憧れる人は多い。後者だとしても自分がオリジナルだと言うことにこだわるのは仕方ないと思う。産みの苦しみがあったのだから当たり前だ。なので両方が成り立てば一番いいのだろう。中々多くはない気がするけど。

もう一つ別の方向から話をするなら、ICTを積極的に使ってみようとするのは若い先生が多い。しかも女性が多いことをご存知だろうか。データを取ったわけではないが、そう感じるのだ。
「やってみたいです。でもどうしたらいいかわかりません。」と言える人はチャレンジが早い。支援員が味方についていれば、夢中でチャレンジを繰り返す。良い授業にICTを加えると書いたが、まだ若い、経験の浅い先生はこれからの教員人生長いのだから、チャレンジして失敗しても良いというチャンスを与えられる必要があり、それを研究、公開授業という形で公に見てもらうことは意味はある。しかし、そこに見にくる先生の見る、聞く姿勢はどうなのかとこれまた疑問を感じる。これは学芸会ではなく、チャレンジの場なのではないのか。失敗なんてない。でも玄関でご挨拶するために立っていると、笑いながら「あれはダメだな」とかそう言うダメ出しを平気で発しているおじさんたちがたくさん通る。(文教はおじさんが多いから仕方ないけど)協議会でもコテンパンにされるのを見ることもある。でもじゃあどうしたら良かったのかは出てこない。だって否定する人は自分は使わない人だもの。一つでも良いところを見つけて拾い上げ、ダメなところは、「そこはICTじゃなくていいんじゃね?」ではなく、こうしたらどうだろう?と考えさせる投げかけがあって然りではないのか。


話を戻すと、これからまた公開授業、研究授業、そして学会発表と一年かけてお手伝いをするのだが、ICT活用をテーマに発表する前に、やはり支援員として中に入って、普段の授業を普段の行事や生活を共にしてみて、問題点やお悩みを聞き取り、信頼関係を築いたのちに、そこに必要なICTを整備していきたいと考えてしまうのだ。
そうなるとやはり支援員は既にあるものを理解する、日々のトレーニングが必要だけでなく、ICT導入前の段階で学校に入る必要があるんじゃないかと思う。今回の支援はもう今更だけど、この学校(2校ある)にたくさんお邪魔してやらねば一年を無駄にさせてしまうように感じて恐ろしい。もっと言うなら、それを私なんぞに丸投げされているということは、情けなくもあるのだと書いておきたい。