ICT支援員はこんなことをしているよ

タイトルを読んで業務一覧を期待されるかと思うので、言い訳程度に書いておく。

大きく分けて4つ。

授業支援・校務支援・研修会・環境整備支援だ。まず先頭に書かれる「授業支援」が何を意味するのか、伝わっていないことが多い。

実際に授業の時間に立ち会って、子供達に機器の操作を教えたり、不慮のトラブルに備えて先生が困らないよう、授業を止めないように助ける。これはある意味もう当たり前。それよりも喜ばれる授業支援は、大まかにいうと「教材作成」「教材配布」「機器運搬、準備」「機器片付け」「データ整理、印刷」この部分だ。

では「校務支援」は?校務支援システムが入っていると、その支援だと思われがちだが、そのシステムは一般的でなく、しかもその学校に合わせてカスタマイズすらされているので、その学校を知らなければ支援できない。それでもニーズはある。特に年度始めと学期末。メーカーのヘルプデスクがあるとしても、直にパソコンを見ながら聞きたいのだ。もちろんそこはメーカーがどこまで我々に情報提供してくれるかにも関わってくるが。

それ以外でも学校の校務PCはWindowsがかなり多いので、校務支援にWord、ExcelPowerPointは必須だ。特に中学校はExcel職人が求められることが非常に多い。Officeの中級以上のスキルは絶対的に必要。マクロは対応しないことにしていたが、今は少し考え方を変え始めている。ていうかやらざるを得ない状況にあるのは否めない。他にもさまざまな学校独自のソフトを知らないと対応できないので、知らないソフトへの順応力も試される。あとはセキュリティの意識の高さも大切だ。なぜなら「学校ホームページ更新作業」「学校調査」がほぼ必須だからだ。

あとは、研修と環境整備。ここが肝だ。

導入があった時、それを先生方にうまく伝える研修ができれば、スタートからスムーズに運用が始められる。日常的にも使い方を教えながら授業に合わせた活用を提案できるかは大きい。

 

そして、実は最も重要で喜ばれる、じわじわと染み込んで手放せなくなるのは「環境整備支援」だ。学校に入る機器は、導入時点ですぐに使いやすくしてあることはまずない。そこに我々のようなコーディネータが付いていたとしても、学校によって機器の管理の方針が微妙に異なるからだ。本音を言えば、そこまで考えて提供したい!!しかし時間とお金が間に合わなかったりするのが現実。そこで現地に入る支援員がそれを担うのだ。使いやすい整理整頓、日々の手入れ、壊れた時の一次切り分け、サポートへの連絡。具体的に言えば、学校で管理しやすいようにシールを貼ったり名前をつけたり、台帳や貸出カードを作ったり。こまかい周辺機器やコード類がどこかにいってしまわないようにまとめて使いやすく配置したり。

以前ちょっと書いたことがあるが、LANケーブル一つでも、ハブ側とPC側で頭に違う色のカラーのビニールテープをつけておくだけでも、席移動時の差し替えによるループは激減する。

そんな工夫がアイデアが、それを実行する機動力が我々には必要だ。アイデアだけでなく、実際にやるのだ。それをやる暇が先生にはないのだから。他にも仕事は山ほどある。

 

それでも支援員について話してと言われると、構えてしまう。なのであえて、文章にしてみれば少しは頭の中が整理できるかなと思って書いてみた。なぜならぼんやりした部分が多すぎるからかもしれない。思うことが、日々少しずつ変わるのは、自分が対応する自治体が多く、それぞれが日々違う考え方で動いているからで、そこに行く支援員は勤務先の学校の幸せを願って働くのだから、支援する学校が変わればサポートする側の頭も切り替えることになるのは当たり前で、やむを得ないのか?と言うことを考えている。

スタンダードがあるようで、しかし現場によって、自治体差、校種の差、地域差、そして個人差…実はそこに入っている販売店にも差があり、そんなことに関わらず支援に入る我々には、それはかなり上下左右にマージンがなくてはいけない。同じ自治体の案件がずーーーーっと続くなら、そこに特化した支援になっていくので、それが正義になっていくけれど、必ずしもそれが本当に良い結果を生んでいるとは言えないのが自分の印象だ。これは、それまで閉鎖的な状態で支援が続いてきた地域を引き取ったりした場合に顕著に見られる。

学校単位でも、こだわりが強かったり、異様に心配性だったり、または無闇に派手にやりたい人が方針を決めている場合、しばしば私には納得できない要求がくる。しかし現場はそれを求めているのだからと、支援員はそこでの信頼を勝ち取るために必死に対応しようとする。そもそもが「支援します」なんていう我々に、初めて出会う学校の対応はほぼウイルス扱いだと言った人がいた。また「一人アウェー」だと言った人もいた。そのくらい我々は「異物」だ。現場は、「ICT支援」ときいて、誰一人ググったりはしない。自分の中の「ICT支援」を考えるのだ。なるべく都合の良い「ICT支援」だ。

そしてそれに応えてもらえないと、がっかりする。ある程度情報担当の先生が完全に管理している場合、そりゃあ他所からきた「専門家」なんて煙たいだろうから、冷たくされたりすることだってある。いや、それ以前に勝手にすごいエンジニアみたいな人だと思って、普段困り果てているパソコンの基本操作なんてきくのは恥ずかしいとき思い、話しかけもしない。高度なICTに決まってるから、私には関係ないと視界の外にやる。そんな現場にひとりぼっちで放り込まれ、そこからスタートだ。支援員はこんなことができますというパンフレットを一度作ったが、あれは改善の余地がありありだと思っている。伝わっていない。知られていない。だからみんな勝手な想像で期待したり失望したり大喜びしたり怒ったりするのだ。プレゼンで導入に持ち込んだ自治体は、今モーレツに役立っている。委員会には何人もの校長先生や現場の先生からお礼のメッセージが届いている。それでもまだ現場には隅々まで伝わりきっていない。まだまだ努力が足りないと反省ばかりだ。

ちなみに「納得できない要求」それは、それをやってしまうと、実は先々を考えると周りの先生方には、そして、支援員本人にもなにも良いことがないものを指す。ICTを使うために授業や生徒指導がよそになったり、逆に機器を全く使わず効果なしと判断され、次への予算がどんどん取りにくくなるケースもある。もしくは到底支援員の導入目的とは外れた、ヘビーな作業、高度な作業、無関係な作業などだ。しかし、それをどう対応すべきなのか、冷静に判断できる支援員は少ないだろう。かつての自分もそうだった。何でも屋だった。本当はそれが求められているのかもしれない。けれどそれでは何も変わらない。いずれ支援員も学校の忙しい泥沼に飲み込まれて動けなくなってしまうのだ。(本人は活躍してるつもりになってしまうからタチが悪い)だからこそ、今、支援員さんに、そういう時の逃げ場やうまくブレーキをかける方法や、相手に安心感を与える言い方を教えたり、代弁したりするのが私のような中間に立つ人間の仕事だと強く思う。もちろん、支援員さん本人が圧倒的に信頼を得てからでないと、突っ走る人を柔らかく受け止めながらブレーキをかけ、少しだけ方向を変えるのはとても難しい。だから、現場に立つ人のコミュニケーションスキルをしっかり育てる必要がある。なるべく短期間に信頼を勝ち取り、対話ができる立場にならないと、ICTは「強い」管理職や委員会、もしくは情報担当(これは中学の場合技術の先生)の方針で方向性が強引に固められてしまい、先生方に選択肢がなくなっていくからだ。とはいえ、それだって、頭が変わればガラッとひっくり返る。禁止方向でもイケイケ方向でも先生方の本来の「授業」の目的の阻害になることが多い。本当にさまざまで一つ一つの例を話さないとうまく伝わらないかもしれない。

「授業」は大切。私たち外部の人間はその聖域に踏み込むことは中々に許されないと思っている。しかし、だからといって、それにこだわりすぎて、ICTを不要に制限するのはおすすめできない。その安全性と注意点を話すには、たくさんの知識が必要だが、それはICTの基礎体力でもあり、本当は先生のみならず子供達にこそ伝えたいスキルだと思う。モラルという言葉ではなく、情報技術という視点で、できること、できないこと、できるかもしれないことを知って、危険を察知したり、予防すれば、ICTは魔法のように私たちを幸せにしてくれるだろう。

そう、本当は私たちは、そう言ったことを日々先生方に伝えていきたいのだ。

いずれ子供の時からICTを理解し、思うように動かして、我々の支援など不要になる時が来るのか。というと、実は私たちの仕事はそれだけではない。いや、むしろそれ以外の所が爆発的に多いことも、我々を投入しようと目標値を掲げた文科省の方にはちゃんとわかってほしいと思うのだ。その部分はICTに限らないことなのだけど、それだって、本当は子供達に伝えて身につけさせられることなのだ。

私たちの得られる情報をもっともっと集めて発信したい。業者や自治体の垣根を超えて、支援員の知見を集めてできることがあると感じている。現場の声をたくさん聞き、また、研究者と言われる名のある先生のお話を聞き、そして子供達と触れ合い、時には学校をサポートする保護者にも関わる私たちだから知っていることがこんなにあるのに、それを捨ててしまっていいのだろうかと思うのだ。どんな形で発信すればいいのだろう。いつものように、思いつきでこの冬一度やってみようか。ああ、、すこし頭が整理できたかな。

アンプラグドって一番難しい

朝からずーーっと考えてる。

前々から色々な学校やイベントで実施される「アンプラグド」と言われる活動を体験しているが、実は私の頭の中で腑に落ちていないことがいくつかあって、それは、あのアンプラグドっていう活動をやっている先生方は、何を教えたいのか?ということだ。

目的をもって実施しているイベントであっても、体験した人がその趣旨を理解して同じアクティビティを実施できているかが気になる。

改めて「アンプラグドコンピューティング」について本を読んだり調べたりそこに書いてあるものをやってみた。日本の学校現場でもすでに色んな「アンプラグド」の実践事例があるのだけど、結構人によってアレンジされていて、Appleのプログラミング研修でも、人間がロボットになってみるような実践が多い。

しかし、これはよほど的確にセッティングしないと、コンピューターの仕組みの理解には繋がらないように思うのだ。

以前(2年前くらい?)ここで私自身がつまづいて、そのアクティビティを体験した後、これってコミニュケーションのトレーニングなんじゃないの?と言ったら、ちがうと指摘されたので、ちがうのか〜じゃあなんだこれ〜?とまたモヤモヤしていた。

人がロボットになってみる「アンプラグド」だけではそもそもコンピューターの性質の一端しか理解できないように思う。

「WHY プログラミング」でも、ジェイソンに指示をだすというのをやっているが、番組はその一回ではないので、トータルで見ていく必要があるのだが、あそこだけ取り上げている人もいる。

「研修でアンプラグドをやって」と言われて、アンプラグドのアクティビティは一種類じゃないということ、コンピューターのことをしっかりわかってないとアンプラグドは、プログラミング用コンテンツの操作研修とは次元が違うので、私がやったのをアンプラグドだと思われてしまう以上、一個だけやってハイ終わりーみたいに、おいそれとはできないじゃないのと思った。

「アンプラグドプログラミング」で、何かをするための手順を的確に指示すると言うようなアクティビティは、ロボット役になる人が自ずとロボットになってしまうような仕掛けをしないと、人間なので相手の意図を感づいてしまう。例えば「白い紙に丸を書いてください」という命令は、私たちの日常から考えて、薄っぺらい楕円やすごく小さな句読点の丸みたいなものを書く確率は低い。また、書き始めると絵が出来上がっていくにつれて、出来上がりを想定できるものだと、そこに意志の力が働いてしまう。人間は良くできていると思う。でもだからこそ、うまくいかないわけで、そこに、かつて「これはコミニュケーションのトレーニングじゃないの?」という気持ちが発生したわけだ。

それから考えた結果、お絵かきの場合、途中で描きたいものがバレてしまわないような工夫は考えることができた。

で、このようなアクティビティの場合、コンピューターに対する命令は、具体的で明確でないと伝わらないよということで、最初に結果がうまくいかないことで、それに気づき、どうしたら、正しい結果を得られるのか?をもう一度考えてやりなおしてもらう。

 

お絵かきの話でいくならコンピューターのドットのお絵かきの仕組みを知るには、お絵かきロジックみたいな数字のヒントでマス目を塗りつぶすものがある。あれは、どこを塗りつぶすかが、絶対に決まるように数字が配置されている。だから数字だけみていても正しく塗りつぶせば絵が出来上がる。1000111100→1,4みたいに書いてあるが、縦横の関係性からどこがONなのかがわかるようになっている。

 

しかし、他にもアンプラグドは色々ある。

重さが表記されていない重りを、秤を一つ使って、重い順番に並べる。これは先ほどのとは少し理解できることが違うと思う。どうやっても、結果は正しくなるだろうけれど、今度はどうやれば、最も早く、もっとも手数を少なく解決できるかを探る。トランプの並べ替えも同じだ。これは効率というものについて考えることができるだろう。

片面に色のついたカードを並べて、相手がひっくり返したカードを当てるという面白いものもあった。これはパリティチェックの仕組みを知るものだ。答えが1個に絞られる仕組みになっているから、コンピューターはそれを検出できる。この場合、不思議な体験をもとに、それはなぜできるのか?をロジカルに説明するために考えるということになる。それによって、このコンピューターのエラーチェックの仕組みを理解するのだろう。

今年はアンプラグドをやる。

たくさんやるのは無理なので、さて、どうやろうかな。ここにこうやって書き出していると、また気づくことがあったりして、ほぼ忘備録のような文になってしまったが、今年の研修が終わる頃にはもう少し整理できて自分のスタイルのようなものができるのかな。

思考することと習うこと

昔まだ子供が幼稚園くらいの頃、自宅で毎年スポンジケーキを焼く教室をやってたことがある。

近所の会話で、クリスマスケーキが作りたいけどうまくできないという話題から、自分は10代の頃から自宅でクリスマスケーキは私作で、スポンジケーキは自信があったので、ひとりの人に教えたら、口コミでそのまま、うちで教室をやるようになった。化学系出身の自分にとって、お菓子作りは特に化学だよねーと思っていたので、手順を教えながら、「なぜ、こうするのでしょうか?」みたいなことを語りかけ、スポンジケーキがうまくいかない原因を参加者に考えてもらったりしながら作って、参加した人は間違いなく膨らんだ綺麗なスポンジケーキを持ち帰って満足してもらえた。スポンジケーキの手順なんてそんなに数がないので、考えたりなるほどと思ってもらうポイントは少ないから、みんなすぐにマスターし、参加者はみんなその後の試食も楽しんでいい教室だったと思う。

しかし、手順やコツを理解するのではなく、近所でなくてネットや、口コミで「レシピだけ入手した人」が結構失敗して電話がきたりした。写真をつけていたものの、泡だて具合が伝わっていなかったり、こんなもんでいいか?という感覚の差もあったが、よくよくきけば、ほとんどが砂糖の量を見て驚き、甘さ控えめにしたくて砂糖の量をすごく減らしたとか、レシピに書いていないものや操作を追加したり「オリジナリティ」を発揮していた。クリエイティブはオリジナリティだと思っている人が多いけれど、成功事例の理屈を理解し、完璧にトレースできないのに、オリジナリティと言う名の根拠のない端折りや改変は失敗に繋がることが多い。料理のレシピを人にあげると度々思うのは、一回でいいからそのまま作って見てほしいということだ。トレースして、成功を体験しないと、そこでやめてしまうか、オリジナリティに走ってもう道ができているのに、試行錯誤のスパイラルにはまる。

さらにたちが悪いのは、それをレシピのせいにしたり、私に文句を言ったり馬鹿にする人すらいたことだ。私自身は失敗したことがもう何十年もないし、子供達も真似して作ってるので、百発百中だから、別に揺るがないけれど、いい気持ちはしない。

プログラミングは、これまでの手順というのを使うなら、一度成功体験をしてからでないと、ただただ時間の浪費になると思う。初めて経験する人が、試行錯誤を楽しめる環境というのは、実は裏側にものすごい準備があるからできるので、それが準備できていないのに、迷子になりまくって困ってるのを黙って見てるなんてできないのだ。2年くらい前のプログラミングがこんな感じだったので、もやもやしたのだけど、今年はかなり試行錯誤の環境が整ってきたのかなと思う。だから、今までプログラミングをそんなにやってなかった人たちでも、指導者側に立てるようになってきたのかなとも思う。

かくいう素人の私も今年はますますプログラミング研修の依頼が目白押しだ。参加した人が成功体験をして、次にオリジナリティを発揮できるような研修は本当に難しいけど、自分がどのくらいやったかがやはり大切なのだと思うと、ケーキと違い、プログラミングは全然トレーニングができていなくて毎日焦るばかりだ。

あなたは本当に学校にありがたいサポートをしているか?

今朝LINEの保護者グループの話を、Facebookで少しした時に思い出したのは、かつて一緒に働いてた若いお母さんが、子供を産んで保育園に入れたかったけど、抽選に漏れて入れられなくて、でも仕事やめられなくて、とりあえず幼稚園に入れたものの、そこは会社では働いてないお母さんばかりだったため、お母さんたちの輪に入ってもうまくいかず、暴力まではいかないものの、子供に当たってしまったりして、すごく苦しんでいたのを思い出す。

ただ、彼女は、お子さんにトラブルがあった時は仕事を休んでも、ちゃんと対応していたし、(休むとなると大変だったけど)日頃こういう仕事をしているので、幼稚園の先生への気遣いはしていたと思う。一生懸命育てていた。それで十分ではないのかとも思った。

自分も役員やったり、授業の補助したりしたことあるから、保護者も学校をサポートすべき的な考えも理解するけど、働く母として感じるのは、学校をサポートするっていうのは、半端に先生の真似事をしろってことではないし、先生にアドバイスと称して自分勝手な要求をするのとは違うんだよと言いたい気もする。親は子どもを自分の責任で育てる代わりに、自分の好きなやり方で育てられる。もちろん、人権的な意味ではダメなやり方はあるだろうけど。働くために、子育てまで学校や幼稚園に委ねるなら、そこに個人の好みは反映されない可能性があることは理解すべきだと思う。40人の子どもを相手に最低1年間やってみたらいい。家で数時間10人程度の子どもを預かれたくらいで、教育ができると思ってはいけない。何人子どもを産んだってそれとは違うのだ。もちろん逆もまた真なりで、ベテラン教師が良い親になるかなんて保証は全くない。

チーム学校なんて、宗教戦争が起きそうなくらいの覚悟をしなくては、能天気に取り組んで押し付けのサポートなんてお互い迷惑でしかない。なぜなら役割分担なしに、人だけ放り込むからだ。臨機応変は必要だ。でも人のうちの台所が使いにくく、他人に台所に踏み込まれたくない、あの感覚はそう簡単に払拭できないだろう。やるなら完全に再構成したほうが早いと感じているのだが、どう再構成するかの具体案がここで示せないのでは、私もただお茶の間でぐだぐだ自論を展開している人と変わらないな。と書きながら反省している次第だ。

プログラミング明日会議から私の明日

昨日のイベント「プログラミング明日会議」について久しぶりに時間ができたので書こうと思う。

6月16日(土)、新川の内田洋行本社ビルで、みんなのコード主催の「プログラング明日会議」というイベントがあるよ、と営業の人から聞いて、運良く日程が空いていたので申し込んでみた。会場の手伝いではなく、参加者として。そのほうが自分には良い。

会議の内容は、文科省の方の「プログラミング教育」に関する講演から始まり、授業で様々なプログラミングに挑戦した先生方の実践報告。これも決してみんなのコードの宣伝ではなく、「micro:bithttp://microbit.org/ja/を使った理科の授業事例と、もうお一人は主に「PETS」というプログラミング教材https://4ok.jp/pets/の実践事例だった。

その後には、自社製品だけでなく、他社の商品の紹介と体験会があって、新川本社ビルの他の階に、体験できるスペースを設けて、参加者グループ毎に、ツアー形式で回った。

内田洋行本社ビルなので、7階にあるフューチャークラスルームの実演と、最近うちの商材になったSONYの「MESH」http://meshprj.com/jp/

LEGOなども簡単に紹介があった。これは、今年私も研修をいくつかやるので、レポートはまた別の機会に。

そして富士電機の「動かしてみよう!」というプログラミング環境とロボット体験、そして、みんなのコードとして、杉並区立天沼小の校長でいらした、福田晴一先生が自らmicro:bit体験を担当された。何より先生方のカジュアルな姿が新鮮だった。

 

このツアー型の展示は以前お邪魔したみんなのコード主催のイベントならではのやり方だなとその時のことを思い出した。海外の医療機器展示会なんかはこの形式だ。全ての展示ブースに、参加者全員にアピールする機会を与えるとともに、見る側も選り好みして、新しいものを見落とすリスクを軽減している。私は個人的にこのツアー形式は好きだ。時間が長い展示形式の時は、あとでもう一度そのブースを見に行くこともできるし、誰かが長時間独占して説明を聞き損ねることもない。今回は短時間でのツアーのみだが、さわりがあれば、後は調べればいいことなので、出会いが多い方が良い私にはありがたかった。

 

ツアーから元の会場に戻り、最後に、みんなのコードの提供している「プログル」https://proguru.jpの紹介と体験会、そして利根川代表の講演があった。

「みんなのコード」のイベントなので、このブログでは、この「プログル」について書こう。
みんなのコードというと、以前から知っている人は「アワーオブコード」http://hourofcode.jpを思い浮かべると思う。しかし、子どもや保護者向けのプログラミングイベントとは異なり、先生向けイベントは、実践事例発表だけでなく、様々なプログラミング教材や環境を提供するメーカーとの出会いの場でもあり、私もそこで出会ったものもいくつかある。

しかし、ここ最近、みんなのコードには、現場で教鞭をとっておられた先生方が参戦しはじめた。そして独自のコンテンツを作っている。それが「プログル」であり、またもう一つ、「プロカリ」というサービスも。https://procurri.jp

 

あくまで個人的な感想なのだが、リリースが早い、実行が早いのが今時の起業家らしいとも言える。とりあえず出してしまう。コンテンツが少なくても。私はそのスピード感が良いと思う。他社とのコラボレーションも早い。分け隔てがない。情報が多いらしいが、私は先生ではなく多くの現場を支援する人たちを支えるため、個人的には情報はいくらでも欲しいし、あくまで、私の仕事の仕方の性格上「いいじゃん」と思う。


実は、みんなのコードに参加した先生方の中には、偶然だが私自身がお仕事で関わった方がおられる。プログラミングというと、算数の「多角形の描画」が良く話題になる。これをみんなのコード提供の「プログル」で提案する竹谷 正明先生だ。
今はみんなのコードで、指導者養成主任講師としてご活躍されているが、つい最近までは小学校の先生でいらした。私の竹谷先生との出会いはもう5年ほど前になる。

まだ小学校勤務だった、竹谷先生の自治体に、iPadが導入されたのが今から5年前。その経緯やその時のことはそれはそれは鮮やかに覚えている。その話は非常に長くなるのでここには書けないけれど、その時まだタブレットを活用することに戸惑いを隠せない現場を救ったおひとりが竹谷先生だと思っている。私はその竹谷先生の小学校の担当ICT支援員兼、教員研修と支援員のとりまとめ役だった。私自身が当時非常にiPadが好きで、個人で使いまくっていたのもあり、iPad導入時にも深く関わったおかげで、大変多くの経験をさせていただいた。
短期間で交代を義務付けられていたので、担当支援員自体は1年で交代したが、その自治体の支援コーディネートをずっとつとめている。

プログラミングが盛んに話題に上がるようになった頃、竹谷先生が現場で算数にiPadでプログラミングをとり入れた公開授業をされるということで、当時の担当支援員さんととともに伺う機会をいただき、協議会にも参加させていただいた。ここで実践されたのが多角形の描画だった。メインゲストはみんなのコード代表の利根川氏だった。

あの当時竹谷先生は小学5年生でも、算数の学力が高い、少人数のクラスにこの多角形の授業の試みをされていた。公開授業の時に使用したのは、scratchベースのiPadアプリ「ピョンキー」(App名: ピョンキー、デベロッパ: SoftUmeYa)で、この授業を実践された。

その時にはまだプログルは当然生まれていなくて、この自由度の高いアプリで、実践者も少ない中、児童にその使い方から丁寧に教えられて、授業があっちこっちに行ってしまわないよう、ずいぶん工夫されておられたのを覚えている。それはなにかを制限するというよりも、子供達が課題に興味を示して取り組むような導きがあったからだと思う。できすぎる子が退屈したり、できないからとふてくされることなく、ずっと楽しそうにチャレンジできたのは、竹谷先生の授業力に他ならないだろう。

プログラミングを授業に取り入れる試みはその前にも別の自治体などで少しだけ始まっているのを知っていたけれど、まだ数が非常に少なかったころだ。

子供達にiPadだけをひたすら触らせるのではなく、時には先生自身が被り物をしてキャラクターになりきり、子供達に間違えたポイントに自ら気づかせる工夫や、黒板の隣には大きな電子黒板、反対側には小さめだが実物投影機と繋がったモニタも駆使して、それまでに多角形の基本はしっかりと教えた上で、教科書に載っていない形まで広げて、作図してみることを手書きでなく「プログラミング」によって実現していると感じた。

当時はさすがにこれだけの準備と様々な機器を操作しながらは、かなり使い慣れていなくてはできないと思ったけれど、プログラミング自体の取り組みは、支援や教員研修が仕事の私に、この価値を説明するのに十分なエビデンスがもらえたと感じた。

動画が鉛筆と定規、分度器、コンパスで書くのだとしても、その方法でなぜ書けるのか?を理解しなくては意味がない、ただの手先の訓練だ。しかし、いつも感じるのは、ICTは、その手先の器用さや道具の良し悪しを加味せずに、頭で想像したこと、論理的に考えたことを実現、検証するために活躍する。これは時が過ぎても未だやはり変わらない。コンピュータは人にできないことができると確信できる。

 

「明日会議」では、実際に児童の立場になって、竹谷先生の模擬授業を受けたが、初めてみたときの実践から比べると、日本中を飛び回って鍛え上げたその授業はかなりパワーアップしていた。当時少し疑問に思った部分も、指導案でわかるようになっていたし、何より今は「先生」でなく、プログラミングで授業を良くするために、そのために作ったものを伝える立場として、オーディエンスが欲しがっているものを的確に与えていることは、「先生」であった経験を良い意味で活かしながら、そこはビジネスとしてニーズに応えていると感じた。

たくさんの方がお話しされたが、今回一番眼が覚めるようなパフォーマンスだったと思う。

プログルは、ある決まったテーマをプログラミングで解決、発展させるための教材だ。

竹谷先生の実践が背景にあるからこそのあの多角形のプログルには命が宿っていると感じる。

なにしろ、環境に左右されずネットワークさえあれば、スマホでもパソコンでも、問題なく動作する。サイトも軽い。そこだけでかなり差は大きい。そこは本当に各社見習って欲しい。軽さと確実性。それだけで先生は安心する。

常日頃展示会や、支援している学校に持ち込まれる様々な教材には、本当に様々なものがあるが、それらには命が宿っているものと、そうでないものがあると実感する。竹谷先生のお話は素晴らしく分かり易かった。さすが、国語専門の先生でいらっしゃる。本当にわかりやすい。そんな竹谷先生が何度も何度もやってみてブラッシュアップしたからあのプログル多角形コースがあるのだろうと思う。

しかし、あの教材から、添付された指導案からその授業でやることを読み取りきれない、またその現場を見に来ない業者には、真似したものを作っても命が宿らないように思っている。まるっと指導案ごとコピーすることがない以上、そこの意味をわからなければ、変えてはいけない部分を勝手に変えてしまうかもしれない。また、現場への説得力に欠けるかもしれない。

なので、現状プログルは、登録なしで無料、指導案やワークシートもダウンロードできる大変使いやすいサービスだが、竹谷先生のデモを聴くことで使い方から目的も知ることができた。

コースを最後まで体験すると、自由に作図してみるコーナーがある。そこで、サンプルにあった、「45角形」という課題は、なぜ45角形なの?というところがはじめ私にはわからなかった。そこには、多角形の1つの角の大きさと角の数の関係を考えた時に出てくる、掛け算の左右を入れ替えるような子供の純粋な発想から生まれるものなのだが、それは先生のご説明があって、ああそうかとわかった。

この子供のひらめきとチャレンジから、多角形の辺の数を増やしていけばだんだんと円に近づいていくということに気づくきっかけになるのだが、あくまでそれは毎回起こることではないだろう。

 

多くの実践を積んでブラッシュアップされたデジタル教材は、ともするとそのやり込んだ先生が機能を盛り込みすぎて誰も使えなくなってしまったり、シンプルだとしても使い方の細かいところで属人的なものに左右されてしまう恐れがある。

そういった意味で、今回後半のプログル体験会は、指導案と教材のみならず、竹谷先生のこの話が付いてきて初めて響くものがあるため、ひとつひとつの意図がユーザーにわかるような、動画をつけるとか、何か捕捉が欲しい気がしたのも確かだ。ただ、動画には情報が多すぎるため、取り違いや揚げ足取りもあるだろう。

scratchでできることをなぜプログルにしたのか。そこが現場を慮ってのことだと、しっかり伝わるものなら、無駄に叩かれることもないだろうけれど、そこを冷静に見られる人ばかりではないと思う。

ただ、支援する、やらなければならないと困っている先生方に、例えばコンピューターで作図をすることで、手では時間的にも技術的にも書ききれないものを体験できることがコンピューターで、プログラミングでやってみるメリットであるという気づきを先生方に見せられれば、そこから、どの教科でも何かその価値を示せると感じた。ただ、その教材研究は、今の先生方には時間的に厳しい。そして、今アナログでやっている授業を越えることを説明できるものでないと、ほとんどは受け入れてはもらえないだろう。

「プログル」のような教材に頼るだけでなく、こういったものからヒントを得て、自分がこれからやる単元で、子供達により多くの発見や体験を与えたいと思った時に、私たち支援をする者はそれを形にする手伝いがしたい。

簡単なことではないけれど、手がかりがないわけではないと思っている。

自由度の高い、しかもコーディングするより比較的簡単に組めるブロックプログラミング環境は、そういった現場のニーズに応えるには良い道具だと改めて思った。

 

 

さて、この会に参加して、帰りの特急の中で私も「明日」のことを考えていた。ここからは今の自分の頭の中だ。

教員に安心感を与えられるかもしれない、教材の提供、情報の提供がされはじめた一方で、子供達はどうか?

プログラミング教育をこれから学校で取り入れていく際に、先生にはこうしたサポートが数多く出始めた。子供達はどうなのか。学校ICTを支援してきた身として、子供達は、授業で理解を深めたり、たくさんの体験を短時間で実現できたり、友達と考えを共有したり、そこには、あくまで授業における目標が優先で、「プログラミングは目的ではない」が実現されているものがある。(モーレツに突っ込みたい人がたくさんいそうだが、ちっぽけでなんの力もない個人の意見だと見逃してほしい)これで先生は少し安心できるかもしれない。

もっと使いやすくなっていけば、「効率化」にも大きな貢献をするはずだ。プログラミングで新しく得られるものの一部をみんなに示してくれるのだから。

限られた環境で目標に到達するために必要なツールだけに絞って学習する。それが今の学校ICTだ。

でも、本当は子供はもう生まれた時からこれらに囲まれて生きてきている。

今ブームとも言えるプログラミングやデジタルの子供向けコンテンツやイベント、塾などは何をやっているか先生方はご存知だろうか。

そしてその主催者たちは、子供をどうしたいからやっているのか。いや、保護者は何を求めてそこへきているのか。

 

ひとりの親として、学校は生きていくために必要な基本的な教養を身につけて、より幅広い選択をできるように社会にある様々なことを知り、体験できるところであってほしい。でも、ICTは新しすぎて速すぎて、本当のところは誰も教えられないんじゃないかと思っている。

ただ、長年ICTと共に仕事をしたり楽しんだりしてきて、ちょっとだけわかるのは、「ICTはこれが得意だから、原理的には多分こんなことも可能なはず」という感は養えるということだ。

先生方がより効率良く、今まで不可能だったことを実現するためのICTとは別に、子供達が手に入れるICTの恩恵は何なのだろう。

もしかすると、それは見知らぬ生き物を捕まえてきて飼ってみるような、そんなことかもしれない。じゃあ子供達は好きにさせればいいのか?と言えば否だ。先生は見知らぬ生き物を子供が連れてきてしまった時、とにかく一度離して、それが暴れないように隔離し、調べて、扱い方がわかって危険が少なければ、飼育することも考えるだろう。すでに近くで遭遇するかもしれない生き物については、危険なものはあらかじめお便りを出したり張り紙や学活などでお話をするだろう。保護者だって我が子を守るために、その生き物の生息地や、何をしてはいけないかくらいは興味を持つだろう。(持ってほしいよ…)そんな風に、子供たちと一緒に体験し、育ててみて一緒に学べるのは、生き物や植物の以外では多分どの分野よりこのICTだと思う。先生がプログラミングを、ICTを楽しめることは悪いことではなく、生き物と同様、はっきりわかっている危険からはあらかじめ防御し、止めすぎてはいけないんだと思う。窓から蜂が入ってくるかもしれないから、窓は絶対開けないなんてあるだろうか。でも逆に体験した方がいいからって、教室中をジャングルみたいに草生え放題、生き物放し飼いにするだろうか。そう考えて、やってみてはどうだろう。保護者も責任感を持って参加して、理解して。

一方的に学校に保育と教育を押し付けるのではなく、自分の価値観と都合だけを押し付けるのではなく、一緒に学ぼう。まだまだ学ぼう。

そんな風にICTと共存できる学校であることが理想ではないだろうか。

妄想が膨らみすぎて、イベントレポートから飛躍しすぎたかもしれないけれど、今私が思うICTの明日はこんな感じだ。

 

 

 

 

 

お金のことをちゃんと学ぼう

あんまり流行りの話を自分でどうこう書かないほうだけど、例の制服の話は当事者が考える話で、SNS乱暴に攻撃する必要は私にはない。でも、まあ今時は炎上しがちなネタだとは思う。この話を聞いた時一番最初に思い浮かんだのは自分自身のことだった。

自分自身の小学校が制服だったから、色々思うところはあるのでちょっと思い出話も交えて書いてみようと思った。ちなみに我が子はみんな神奈川の公立なので、小学校は私服。制服になったのは中学からで、あまり裕福な地域ではないので、学校のバザーで制服リサイクルもある。


私が通った学校は、男子は半ズボンに学生服みたいな上着で、帽子も独特の形で赤いボンボンみたいな房?がついてたから、低学年の頃は小さくて細っこい子は可愛らしかったけど、成長して5年生くらいになると、かなり大きい子は、なんか足がやたら出てる感じがして、半ズボンもピチピチ。ランドセルも小さく見えて、半世紀近く経っても、子供が魔法で大きくなったみたいなアンバランスさが、未だ私の脳裏に焼き付いている。
女の子はジャンパースカートで、帽子も形はごく一般的なポーラーハットだったが、肩のスナップを三つもとめるので、当時から色々しょうもない子供だった私は、うちでそんな訓練してないので、背中側にぺろんと垂れてしまうジャンパースカートの肩の部分が捕まえられず、犬が尻尾を追うように毎度くるくるして、笑われ、親に恥をかかせていた。
制服ネタだけでも本が書けそうなくらい思い出はある。
ランドセルが黒くて近所の子に「男のランドセル」と冷やかされたこともあった。


制服には夏服もあった。夏は白い帽子に水色のワンピースで、一番の思い出は、池袋が遠足の集合場所に良くなったのだけど、そこの蛍光灯??の光に当たると、染料のせいだろう、ワンピースが紫がかった感じに光るのが面白くてそのことばっかり気にして、ずっとそこにいたくて、遠足はどうでもよかったこと(笑)


親は子供のことを思って学校を選べるくらい、学校だらけの地域だったから、当時色々奇行が多かった私をはみだしても良いように、と受験させた親には感謝している。勧めたのは祖父だった。いい読みだったと思う。私から見ても変な子だらけ(失礼)で、いい経験になった。あそこにいたから自分の特性がよく分かったとも思う。

 

当時の保護者たちのことも実はよく覚えている。
まず親御さんの職業。それをなぜ小さかった私が覚えてるかと言うと、その子供自身が言ったり、学校帰りに母親たちが集まるレストランがあって、そこによく行っては、お母さんたちの話をそばで聞いていたからだ。お父さんの仕事や立場がひとつのステータスなのはきっと今も根強い価値観として日本にはあるだろう。

お母さんのことを私は「ママ」と呼んでいたが、「お母様」「マミー」「おかあちゃま」と呼ぶ子もいて、それもよく覚えている。

親御さんたちに言いたいのは、お家の中の様子は、どんなに外で取り繕っても、子供からダダ漏れなので、気をつけた方がいいということかな。

 

「うちのパパはお医者様だから、私も東大医学部にいくの」などと、1年生の頃から言ってる子も少なくなかった。弁護士さんの息子さん、社長令嬢、官僚のお孫さん、そういう子がかなり多かった。おそらくお金になんか困ってないちょーセレブなお家ばかりだったのだろう。うちのような、比較的普通の家庭の子供は、クラスで自衛官の娘の私と、仲良しだった区役所職員の娘さんだけだった。
レストランでの親同士の会話も、今考えたらスネ夫のお母さんがいっぱいみたいな感じだったな。面白い話がたくさん聞けた。


しかし、うちの母とその仲良しの子のお母さんは、2年生の中頃にはその集まりには行かなくなって、お互いの家でお茶したり遊ばせたりしていたように記憶している。当時は民間の方がお給料が良かった時代だから、さすがにうちはそこまで金持ちではなかったはず。

 

しかしながら、そんな中なので、制服の値段の話なんか出ない。
私の学校は当時は制服だけでなく、体操服、上履き、ランドセル、手提げのカバン(色がクラスカラーで統一されていた。)ふでばこ、鉛筆、ノートなども指定だった。一体いくらかかったんだろう。今度聞いてみよう。

 

でも、そこにいる人たちは、そこに行かせたいから来てるので、母も友達の親との会話で、そこにどうこう文句を言ってるのは聞いたことがない。そのくらい、その学校の教育や環境は魅力的だった。今振り返っても自分自身あの学校に行ってよかったことがたくさんある。

 

そんなこともあって、私的には、件の学校も、選んで入る学校であるため、入りたい人が入るのだから、どうでもいいなと最初は思った。
すでに入学してる親御さんは、サイズのせいで買い替えになったら、高くなったなぁと思ったりもするだろうけどきっとその程度だ。「アルマーニかぁ、うちの趣味だと○○のほうが良かったなあ」くらいのことを言う人はいるかも。
それに制服目当てで入ってもいないから、(県立高校なんて制服で選んじゃう子が結構いるのに)中の人は外からギャーギャー言ってる人に比べて、当然学校擁護派になるだろう。好きで買ってるんだ。自分の財布と相談して、自分が考えて選択したものを頭から否定されて嬉しいわけがない。

 

ここが実は高価なものやサービスを購入するという行動において、難しい部分だ。
それを購入する、利用する理由は人それぞれだということが一番考えるべき部分なんだけど、マスコミはよく分かってるなぁと思うのは、少なくとも今の日本は、似たようなものを安く手に入れることができるようになったせいもあり、ものやサービスに高額なお金を払う人、それを提供する人に対する風当たりが強く、それの多くは嫉妬なので、煽りやすく、炎上しやすい。

ものの価値(価格)にそもそも相場なんてない、と私個人は考えている。もちろん材料などの原価というものがあるので、最低でも仕入れ値は基準になるだろうけど。人によって、その商品がどうしても欲しいなら、高くてもお金は払うし、欲しくない人は買わない。それだけだと思っている。


これは私が絵描きだから余計に感じるのかも知れないが、私が自分の絵にいくらもらうかも、相場なんてない。「相場はいくら?」って聞かれるのが本当は一番いやだ。依頼内容や今の自分の状況に応じて値段は変えたい。

相場というのは大手が公表してる単価だったりするから、それより高いと文句を言うのがそう言う人であることが多い。私が描くものが欲しいから描いてくれというのでないなら、そっちに頼めばいいじゃないかと思う。こういう人だとお金の交渉がしづらくなるので、安くするのも面倒だし、他の仕事も一緒にしたくない。

お金に対する考え方が合わないのがもっともやりにくい相手なので、逆に自分のマネジメントのもとで働く人にはそこはしっかり話をして理解してもらいたいと思っている。

 

お金に対する個々の考え方は、学校でももっとタブーにせず、まじめに話し合ったり、子供の頃から勉強したらいいのにと思うことでもある。

 

まあ、今回の話の疑問点を言うなら、校長先生のお話が、学校の乱れについての苦言から、アルマーニが関連づけ辛かったことかな。

記事を書く人の考察力も足りないのかもしれないし、ご本人と話をしたわけじゃないから、私の考えも自分の経験に基づく推測でしかないけれど。

今「制服アルマーニ」でググると、有名人から一般人から、私も含めてみんなかなり勝手なことを言ってるので、ある意味情報リテラシーの教材にもなるし、経済学的なお金の話を考えるのにもいい教材かもなぁなんて思う次第。

 

 

 

「基礎体力をつける」ことの大切さ

2020年一人一台端末とか、プログラミング教育だとか、英語だとか、それはもう変革の嵐で学校現場は大変そうです。日々現場で、SNSでたくさんの先生方のご意見や実践を拝見しながら、しかし私はずーっとスッキリしないまま、毎日を過ごしていました。

 

バイスもソフトウェアも、使い方や用途は人それぞれ。日本も、自ら学べ、答えは教えない、自分で考えろみたいな風潮が最近強いですが、しかし、まったくの自己流は必ずしも良いとは言えません。
それがここ数年個人的に実施している、「Excel効率化研修」の人気の秘密でもあります。(地味に大人気です。ご依頼いただけたら行きます。)

自分のICT活用については自分の考えがあるものの、学校のICT活用についての現場や外部からの様々働きかけについては、ずっとモヤモヤしていたのですが、そんな時ふと昨夜見たTVで偶然見かけた、「イタリア人ってみんなおしゃれ。なんで?」という疑問の答えに驚きました。
イタリアでは、中学校は私服になるので、自分たちで服を買いに行くようになるそうです。しかし、洋服屋さんで、勝手に商品を触ったりするのは基本タブー。お店ではお客様一人に店員が一人ついて、着こなしなどをアドバイスするそうです。 なので、イタリア人がおしゃれでなくなるのは、部屋着でくつろぐ時くらいで、外に行くときはコーディネートを考えて服を選べるように、子供の頃になるそうです。なんかうらやましい。

 

人まねでないオリジナリティを尊重することとか、原宿で昔から見かけるような奇抜な服装はそれはそれで文化ですが、お洒落な服装への理解は、お洋服の手入れなどにもつながるので、大事なことだと思っています。高い服を揃えなくても、いい生地を見分けたり、身体に合う服、自分に似合う服を選べるセンスは経済的にも得をします。全身ブランドでもダサいと高価なものに見えなかったりしますし。生地や縫製の良さで高級ブランドを選ぶ方もいますが、いかにも高級ブランドとわかるものは、やはりそのネームバリューにあやかりたい人も多いと思います。

 

前置きが長くなりましたが、今私が直面しているもやもや問題は、ICT支援員のスキルの底上げです。スキルと言ってもICTだけじゃなく、です。
支援員さんたちに雇用元からスマホ(今はガラケー)を支給していただく交渉をしているのですが、私としては自分のパソコンやタブレット持ち込みが難しい学校もあること、情報共有のためのツールを利用するのにスマホがあればストレスが減ることなどが理由なのですが、しかし、その反面、支給したとして支援員さんがすべてそのスマホを本当に使いこなせるか?というと、全く違うのです。操作やアプリを知らないとかではないのです。個人では持ってますからね。ここがいつも言う「ICTの基礎体力」。


例えばLINEで情報共有をしたとしても、いつもいつも答えるのは決まった人で、メンバーがたくさんいるのに、誰もがただ、リーダーに問い合わせるだけで何度教えても学習せず、また同じ質問を繰り返す人が多くて、「もう以前聞いたことなどはボットに返事をさせることはできないか」なんて話があるリーダー役の人から出たくらいです。

ちょっと私的にはがっかりしました。

ここで問題なのは、そのチームはみんな個人で高価なスマホもパソコンももっていて、キャリアも10年超えるようなベテランばかり。現場では愛されていますし、感謝もされています。なのにこれはどういうこと?と言いたいのです。


スマホを持っていても、ググるということを知らない?まさかと思いました。

また、LINEは遡ればトークの履歴が検索できること(これはメールなどでも検索機能がありますから、支援員なら「あるかも?」と気付いてもいいと思います。)を考えない。自分が普段使う、いやLINEは利用者の多さでいったら今や日本では誰もがと言っていいくらい使われているアプリなのですから、深堀しておいて損はないはず。
そして一度聞いた話を保存したり、整理しておかない。せっかく文字で残っているのに。
このあたりはすべて情報リテラシーの部分です。
LINEのトーク履歴はデータの宝庫です。
これは設定からテキスト形式で吐き出すことができるので、私は自分のチームのトーク履歴は時々落として傾向を見たりします。

 

LINEもすっかりメジャーなものですが、最初に書いた、Excelも得意不得意が分かれるツールのひとつです。Excelであれば、天下のMicrosoftが、誰もがやりそうな作業で「めんどくさい」と感じる部分に何も対応しないのだろうか?いや、何かあるんじゃないか?自分が知らないだけでは?と疑いもしないで、ただ、文句を言いながら手作業をしていたり、他人に頼んだり、聞いてばかりいて、負担を強いていたりしてませんか?ということを支援員さんにも問いたいのです。

つまり、BYODにせよ、一人一台買い上げにせよ、学校配備のパソコンルームにせよ、使い方をある程度は教えるべきで、デバイスを自由に選べれば良いわけではないと思うのです。意味のない暗闇の中での試行錯誤による学びは、遭難して、運よく無事生還した後に、なにかを学んだと言ってるのに近いと感じるのです。うっかりすれば死んでしまいます。帰ってこられず遭難したままになるかも。

ICT支援員をお勧めはしていますが、キャリアは関係なく、正直まだ基礎体力がちゃんとある人が多くはないことは、認めざるを得ません。

子供達もデジタルネイティブではありますが同じではないでしょうか?
服の着方と同じで、操作方法は知っている。
でも、肝心なことを知らずに、ただ闇雲に使えばそのうちお互い学び合うなんてことはないと思っています。現に、うちの娘の友達ですら、スマホはほぼ全員持っていても、いつもわからないことをググりもしないで娘にきいてくるので、うんざりして「自分で調べて」と言ったりするそうです。「調べればわかることがたくさんある」ことを、本当に理解しているようには見えないのが多くの「調べ学習」の実態です。

「調べるために、本でも、パソコンでも、人に聞いてもいい」と先生方はおっしゃるそうですが、調べることをするために、本は字が読めなくてはいけません。英語が読めればもっと広がるでしょう。パソコンなら文字が打ち込めないと調べられません。フリックや音声も対応してきましたが、それでも、娘曰く「確実で速いのはタイプすること」。そのためにキーボードからの入力はできたほうが便利なのです。検索をするなら、コンピュータが理解しやすい検索文字列はどんなものかを直感的に理解するために、コンピューターの性質を知っている方がいい。そして、人に聞くならコミュニケーションのための話す力が必要で、その後に集めた情報を整理、保存したり、連携させたりすることも必要です。
「情報を得る」という操作ばかりができて、そのために必要な技能や、得たものをどうしたら欲しい結果に結び付けられて、さらに再利用することで、効率化するのかまでをどこかで明確に教えていかないといけないのではないでしょうか?

学校教育にこれらのことは多分元々あるものなのでは?と思っているのです。なのに、コンピューターが挟まるとどうしてインプットだけになってしまい、その後が今一つなのでしょう。最近では「アウトプットが大事」なんて言ってますが、それがいきなり「プレゼン」するだけで、肝心なインプットからアウトプットへ行く前のところ(どう情報を集めるか、それをどう整理するか、自分の考えに落とし込むかなど)をすっ飛ばしているように見えてしまうのは私がまだまだ学校がわかっていないのかも知れませんが。

 

だらだらと書きましたが、もう一度、「調べる」って何なのか?大人も子供も考えてみたらいいのかも知れないなと思った次第です。