ビスケットファシリテーターデビュー

4月27日、某自治体のICT支援員さんと指導主事の先生を対象に、ビスケット研修を行いました。受講者は13名参加で全員自分のパソコン、タブレットスマホなど様々な端末を持ち込んでもらって、自前のポケットWi-Fiに接続して実施しました。あえて環境を統一しなかったのは、様々な端末を使うことについて、どのくらい学校に提案する際の障壁があるかまとめて試して見たかったからです。

ネットワーク環境に関する障壁は、この後現場で支援員さんたちに試していただくことで、この自治体については、フィルタリング、無線の強さ、セキュリティ関連の障壁、運用する上での障壁を確認してもらうことができるでしょう。

 

研修は、午後の13時から16時。

あまり前振りをしないで、始めにビスケットのサイトを紹介し、起動の仕方をいくつか説明しました。そこからアプリをインストールしてもいいですし、Webブラウザから見てもOKということで、各々が持ってきた環境にあわせて準備をその場でしてもらいました。

ちなみにこの自治体は、Windowsタブレット、ノートPC、iPadと色々な端末が入っています。

この自治体ではデバイスによる制限はないということも支援員さんたちには理解できたと思います。


予め練習用のブックを私の方で作成しました。初めてのファシリテーターなので、まずは基本に忠実に先日習ったことに注意しながら、ビスケットランドをやってみました。
そして、「感染」、感染の応用、「卵が割れたら」からゲーム作り、さらにシューティングゲームはどうやったらできるか?を考えて独自のゲームを作ってもらいました。
ゲームを作っている時に、それぞれがイメージする「シューティングゲーム」はどんな背景か、敵はどんな動きかなどを思い描きながら、どうしたら玉の当たり判定ができるのか、お互いの作品を見たり、どうやってやったのかを共有したりしながら、進めました。
作りたいものを具体的にイメージして、その様なモノになるにはどうしたらいいのか?を自然に考えて試行錯誤しながら成功までたどり着くのに、非常に短い時間で進むのを見て、ビスケットが人により近いプログラミング言語なのだという意味を実感できました。

 

ひたすら頭を使った後は、気分を変えて、不思議な模様を描くプログラミングをして、「わー綺麗」とか「何でこうなったのかわからないーw」と歓声を上げながら、どんどん描かれる模様をみんなで楽しみ見せ合いました。

偶発的に作られるデザインを、さらに自分の思う様な模様にしたいと考える人も出てきて、今までに体験した機能やメガネの使い方を駆使して、面白い作品がたくさん生まれました。

 

プログラミングということについて、次のステップに進むための足がかりを少しでも考えてもらえたらいいなと思い、矢印とおばけのプログラムも最後に少しだけ見せました。

 

3時間研修という話に、みんな最初は「長い」と言っておりましたが、20代の若者から60近い年配の方まで、ひたすら「つくること、かんがえること、おどろくこと」に夢中になって楽しんでもらえたと思います。

みんなICT支援員さんですから、操作に不安はないとはいえ、ビスケットを予め知っていた人でも、全く知らなかった人でも、ちゃんとワークショップをやると全員が退屈も挫折もなくできたので、ファシリテーター研修を受けて良かったなぁと改めて満足な気持ちになりました。

 

実際にファシリテーターをやりながら、自分にもたくさんの気づきがありました。
私は立場上研修を提案し、作る人間なので、常に与えられた使命を背負って、依頼者も受講者も納得する研修をしなくてはなりません。

楽しいだけでは納得してもらえない立場でもあるのですが、ビスケットを幼稚園、小学校、中学校など様々な対象者にご提案する際に、どう説明すると訴求力があるか、説得力があるか、そんなこともここで少し見つけることができました。

 

支援員としては、ビスケットのみならず、scratchを始め、今世に次々とリリースされる、あらゆるプログラミング教育コンテンツやツールに出会う可能性があり、支援しなくてはなりません。また、何がおすすめ?なんて質問が、現場での決まり文句になっていますので、その時に、ご提案できる選択肢をなるべく多くもち、それぞれがその先生の望むものなのかまで考えながらご紹介したいと考えています。

 

今回はビスケットファシリテーターをやらせていただきましたが、プログラミングのみならず、他のものについても、やはり今まで以上に貪欲に知識を蓄え更新し、発信していく努力だけは怠ることができないなぁと、改めて感じました。

 

またどこかでファシリテーターをやる機会はありそうなので、2回目も早くやりたいですね。

 

 

 

「しあわせ」とICT支援

転職や起業が当たり前になっているけれど、
一箇所にいても、一人でやっても、結局目指すものが自分の中にあって、試行錯誤しながら自分の一番好きなものを探し続けられたら、どこにいたってきっと何かを手に入れられるんだろう。
それも人それぞれなんだ。それが「安定」「お金」「人との繋がり」「家族」「出世」「人助け」「使命感」などみんなバラバラだ。
それでその人が幸せなら、他の人の価値観で決めた幸せを押し付けたり、間違ってるなどと変えさせようとする必要はない。だけど、多くの人がそうやって他人の幸せを間違ってると否定して変えさせることに時間を費やす。変えさせることで、その人が望む幸せに繋がる時だけ、そのアドバイスには意味があるのに。

ICT支援員は、その学校が、その先生が望む「教育」「授業」に寄り添うのが基本だ。
自分の教育観を持ち出すことは普通しない。教育について直接児童生徒、保護者との関わりを深く持ち、何年も「授業をする」という現場を踏んでいない私たちが、押し付けるような活用はどれも受け入れられない。
私の研修にテキストがないのもそのためで、相談されている先生や、受講してくださる方の個々のお困りになるべく沿うような内容をその場で作るからだ。
そもそもお困りがない(興味がない)人には、楽しい、興味を持てるそんな話からでないと、何も始まらないので、まずは「おっ!?」と思ってもらえそうなネタから。

一人で頑張ってる、変えられないルール、超えられないお金の壁を無理に壊そうともがいている人には、違う視点で考えたり、頑なになって一方向しか見えなくなっている人に、こっちもあるよと出口をいくつか提案する。しかし、その実践がいつしかルールを変えられる力になったりすればとても嬉しい。
でも、「一人で頑張ってる」と思っている人は周りに期待をしなさすぎるケースも多いから、周りを巻き込む手伝いをする。周りをあてにする方法を少しアドバイスする。「楽になってほしい」これが私の目的かもしれない。

行政と委員会と業者だけに決められてしまっていた設定や運用ルールも、ここ数年は私たち現場の事情を汲んで、支援員の報告や提案から、活用しながら設定や運用ルールを変えていくことが可能になってきた。
ただし、きちんとしたアフターサービスに予算をとっていることが前提ではある。
これだけは、コミュニケーションスキルに依存することも多いと思うので、最近「コミュニケーション」にこだわり始めたのはここが原因だ。

私たちのチームがうまく回っているのは、支援員の情報収集能力とそれを汲み上げて営業や委員会に「上手に」理解してもらうことで、「気持ちよく」SEさんやCEさんと連携して、そこにより良い活用をしてもらうための見直しをする余裕が出てくるからだ。また、私のようなフルタイムで働けて、自由度の高い人間が支援チームにいることも大切だ。
もっと私のようなスタンスの人がたくさんいたら「死蔵率」は下げられると思うので、ここを厚くしたいところだ。
今年は昨年始めた「コミュニケーションスキル」をあげるセミナー活動と、自分と同じような仕事をする人を増やすための活動に力を入れる。
あと、もう一つ企画を考えているので、それを今年は実行してみたい。

 

マネージメントをするという事【その1】

数年前に、マネージメントをする立場になって、一番大切と思うのは、知識のネットワークに依存できるようになることだった。

かつて常に「一人アウェー」のシングルプレーヤーだった自分から、それをチームとしてまとめるマネージャーに切り替わる時に一番重要なところでもあったと思う。

 

初めは明確に「知識の依存」と理解できておらず、「知識の共有」止まりだったので、説得力も足らず、反発に論理的に説明ができなかった。しばらくの間は、不遜にも「自分」の知識をシェアすることにばかり執着していたからだ。

それが「知識のネットワークへの依存」まで変化するには数年がかかった。

 

この「知識のネットワークへの依存」を受け入れるには、全員のメンバーそれぞれが、何を持っているのかを理解し合う機会が必要で、それを上手に引き出す方法や、お互いの得意分野に敬意を払いつつ、信頼し、さらに高め合うことをリーダーが知らないと、うまくいかなくなる。

新規の支援員の採用面接をすることがあるのだけど、採用時の質問をする際に、履歴書だけ見てその人の持つ能力を決めつけてしまったり、支援員の仕事に直接関係のある能力しか興味を持たなかったりすると、良い質問ができずに良い人材を逃しがちだ。
なんのために面接をするのか。
特に支援員のような仕事は面接がとても大事で、私はその人の今のスキルよりも、家庭環境、趣味、特技、嗜好そして、所作を見ている。そこから、今後どのように成長できそうか、元々の素養から、どんなプレーヤーになりそうかをはかっていく。

この仕事に来る人は新卒ではまずないので、これまでの経験も大切。

私たちにない知識が眠っているかもしれないからだ。

 

私がするのは最終面接なので、少し残念なのだけど、最終面接はカフェなどで何か食べながらやる。前述の見えないスペックを明らかにするにはこれが一番わかりやすい。

面接時には仕事の説明などはするが、こちらから型にはまった質問はほとんどしない。
食べ物を選ぶ時、その思考パターンを観察したり、食べている時の動きや、おしゃべりの仕方などから性格を読み取ったりもする。
そして、その短時間の雑談で「この人はいい!」と感じた人は、現在ほぼ100%、たった2〜3年で素晴しいメンバーに成長した。
しかし残念なのは、この仕事が安定にないことにより、素晴らしい人材に安定を求めて巣立たれてしまうことだ。そういうことも時々起こる。

学校ICT活用をサポートするという仕事を、これからどのような形に変えていけるのかは、まだわからないが、この仕事を志願する人材にもっとたくさん出会えるように、体制を整えていきたい。そして、見つけた人材が、この仕事について幸せを感じられるような職場にしたいものだ。

 

子供が好きなものを選ぶということ

私がイラストレーターなので、絵を描く環境が赤ちゃんの頃からふんだんにある我が家だが、一度もどれを使えと言ったことはない。勝手に出して勝手に使って良かった。
(高い紙はしまっておいたけど)
鉛筆、クレヨン、パステル、色鉛筆、ボールペン、コピック、水彩絵の具、道具はスクリーントーンやカラートーンもあった。

ハサミものりもカッターさえも勝手に使えた。

まあ、もちろん使い方としまい方、人に渡す時のマナーなどは教えたが。
長女と次女は三女に比べるとデジタル率がまだ低いが、3人ともここ5〜6年は紙とデジタル両方を頻繁に使っている。
MacBook Airの長女(24)には前のペンタブがもう長年使ってへたって来たので、先日クリスマスにちょっと高いペンタブをプレゼントした。

それを使って自分のチームのゲームのキャラを描き、そのLINEスタンプを売り出した。

 

また、我が家に住んでいるあと二人の子供に

iPad ProとApple Pencil

surfaceと付属のペン

MacBook Proワコムのペンタブ

Windowsワコムのペンタブ

そして様々な紙と画材で囲まれた環境を与えたら(というか、おいてあっただけ)、三女は紙と鉛筆(シャープペンシル)か、iPad ProとApple Pencil(アプリはアイビスペイント)に落ち着き、次女はMacとペンタブ(ソフトはギンプかファイヤアルパカ)かノートとボールペンを常時使うようになった。アナログで描いた絵は、iPhoneのカメラで撮影し、タブレットなどで描いた絵は、スクショかクラウド通してiPhoneからTwitterに投稿しているそうだ。

お絵描き垢は鍵垢だが、とはいえ描いてる最中は目にするので、どんな絵を描いてるかは知っている。
あるグループではお題にしたがって投稿された透過画像をリーダーが再構成して一枚の絵にするという面白い遊びが展開している。
グループの仲間は顔も見たことのない、名前も知らない人ばかりだそうだ。
でもその筋では有名な絵師さんから、共同制作の依頼を受けて、締め切り前の漫画家みたいに夜遅くまで絵を描いている。
朝寝坊して学校にいけないとかは勘弁してくれという約束はしているが、最近夜更かしだ。
描けば描くほど絵はうまくなる。眼を見張るような上達ぶりだ。

20年に渡り自分の子供3人で実験したようなものだけど、子供が自然に選んだデバイスは、確かに私が見ても使いやすい。そして自分でスキルを習得しているので、わからないと使い方を教えてくれる。知り尽くしてるから教えられる。そういう知識を共有しながら私たちは成長するのだ。

学校に仕事で訪問している際、時々子供が入って来て、タブレットの整備をしていると、興味津々でそばをうろつく。先生には色々止められているようで、見せてと言えないから、変なアピールをしてくる。

研修会前の準備だったので誰もいないから、「触ってみる?」といろんなものを10名くらいの子に触らせて見た。実に面白い。たった30分でたくさんのことを見つけ、それに対応していくのが見られた。

例えばタブレットに映った自分が反転していることに気づき、名札が裏返しになっていることを見て、名札の方を鏡文字で書いてきては映し、うまくできるまでやってみたりね。

うーん、こういうのやりたいなぁ。私が見てるから好きに触っていいよっていう時間。どこかでやれないものだろうか。そんなことを最近特によく考えるのだが。

支援員のキモチ【その3】

3歳くらいの時、三輪車を仰向けにひっくり返して、ペダルを手でぐるぐる回しながら、じゃりをガリガリかきまわして、「焼き芋屋さん」ごっこをした。これが誰に習ったわけでもないはずなのだが、なんと全国的に長年にわたりやられている幼児の遊びだと知って驚愕している。
学校ICTの活用については、小難しい言葉で表現するよりも、もっとカンタンな一般の人でもわかる言葉で、「なーんだそんなもんか」とがっかりするほど単純な使い方を伝えていきたい。教育業界に長くいると、頭いい人ばかりなので、ブログやSNSなどでの言葉がとにかく難しい。
でも現場の先生は、会話の中にそこまで小難しい単語は入れてこない。ほっとする。
頭悪い私としては、頭悪くてもわかる言葉でないと、議論しても「うーん、何言ってるかわかんない」と思ってしまうことが多い。社内のメーリングもそうだけど、うちの会社も頭いい人が多いのだろう。「大人って難しいこと考えてるんだな」と中学生の頃思った気持ちがいまだそのままなのは、大人は難しくものを表現するのが好きなだけなのかもしれない。
私の研修が喜ばれるのは、現場の先生が、明日からやれるようなことしか語らないからだと思う。
正直たくさんの機能はいらないのだ。
目を惹く楽しい機能は、その作成者の決めた使い方を押し付けるものでしかない。
シンプルってなんだか理解できてる業者がどれだけいるのだろうか。
いつもそのギャップに悩むので、導入研修の時ですらそんなのを全部とっぱらって、メーカーに怒られそうなくらい、機能の説明をしない。
また、教育に関しても余計なことは一切話さない。だって私の目的に関係ないから。
それより「人間の機能」として、ここが便利、ここに意味があるという自分の経験に基づく明確に説明できる話だけを伝えていくことで、相手はそのカンタンさにやる気を喚起されるのだ。
本当は乗り物として作られた三輪車だが、作った人は、まさか焼き芋屋さんになるとは思いもよらなかっただろう。
そのくらい本当はシンプルであるべきものが、教育業界はあまりに手取り足取り限られたひとの意見でゴールまでの道筋をつけすぎた製品を作り出し押し付けすぎて、こんなにこじれた世界になってしまったのかもしれない。
お客様のやりたいことと、その機器の、ソフトの持っている機能があまりにずれていた時、できませんと言うのか、何が何でも実現するのか、メーカーはカスタマイズしてしまい、ますますこじれていく。力をつけた先生は、言えばそのアイデアが形にしてもらえるかもしれないが、聞く方のメーカーは考えて欲しい。それは今やってみたいだけで、失敗に終わるかもしれないアイデアだ。どんなに立派な先生だろうとも、人間に未来は見えない。
しかし失敗しなくてはわからないことだってある。失敗してもやり直せるようにするには、最低限の機能だけで良いのだと早く気づいてくれと願うばかりだ。焦ってつまらぬ改変をするな。
ほかのメーカーに先を越される焦りに負けることは、マスコミが煽る目新しいグルメや、一瞬のブームに乗せられてあれもこれもと食べ漁り、結果身体に残るのは、添加物と脂肪とコレステロールという、最悪の結果であることを、営業や開発者は理解したほうが良い。
そんなソフトがたくさんある。それの研修やれと言われると、「作ったやつがやればいい」「作らせたやつがやればいい」とその使いにくさに辟易とするのである。

モンスターカスタマーはほかの誰でもない、店が作りだす」ということなのである。

ICTタスクプランナー

こんな記事を見ました。

https://togetter.com/li/1078786

「何これ儀式?」パソコンでPDFの書類をWordに貼り付ける仕事を頼まれた若い社員さんのつぶやき。

自分は様々な自治体の学校支援を長いことやっている間に、実は笑い事ではなくこう言った事例に出会うこともちょくちょくあり、そういう作業を依頼されることもあります。

私たちは、こう言った場合「これは、PDFをWordにするのが目的ですか?」と聞いてみます。

単にPDFの内容をWordとして保存したいだけだったのに、そのやり方がわからず、画像なら貼れる、しかしPDFや画面を画像にする方法が何も思いつかない、印刷して写真に撮ればいいじゃん!ナイスアイデア!という誰かの頑張った軌跡かも知れませんから、慎重に質問をし、特にその作業に意味がないのであれば、最も効率的に目的を達成するやり方をお伝えすることになります。

もちろんこの手順に何か意図があるのであれば、そこは「なるほど、そうでしたか、失礼いたしました。では作業させていただきます」となるわけですが。


もしも物理的に手順を減らす、時間を節約する、精度を上げる、使い勝手をよくするといった改善できるものであった場合、そこに有料ソフトや機器が必要か、無料でできるのか、さらにその手順を簡単な一枚もののマニュアルにするなど、改善がさらに定着し、習慣化することで効率化が図られます。支援員は本当はこんなことができるのです。

この記事では新人があたかもデジタルが苦手な上司をバカにしたような内容になっています。

新人さんは、なんだこれ?と思っても、上司に逆らわず言うことをきかないと、叱られたり、仕事ができないと思われるのが嫌でそのまま作業に勤しんでしまい、ひどく無駄な時間を浪費するのです。

学校には不便をなんとかしようと誰かが考えた不思議な作業があちこちに隠れています。

また、紙でやるイメージでやっているが故に、デジタルになったことが、気づかずに大変な面倒を引き起こしているケースもあります。

ICTが苦手な、あまり頻繁に使っていないかたでなくとも、その工夫をしようと思って取り組んでいなければ、体が慣れたやり方で、ひたすら時間を浪費して、他の仕事を圧迫しているのに気づいていません。

企業も学校もそこは変わらない。そんな小さな時間の浪費を潰していくだけで、多分ストレスや忙しさを解消できるのではないかと思ってしまうわけです。

ICT支援員は、その名前を変えて、操作を教えたりトラブルシュートをするだけでなく、学校の忙しさを改善する「ICTタスクプランナー」(造語です)になれるのではないでしょうか。

 

ただ、支援員もまだ新人の場合はなかなかこの効率化に気づかないか、言いづらさを感じ、改善を進言することまでできず、この記事の新人さんのように、頭の上に?を浮かべながらひたすら作業してしまうこともあるかも知れません。

逆に、この新人さんがツイッターに書いてしまったように、お客様に向かって良いやり方を提案するものの、バカにしたような言い方になり、仕事をサボりたくて言っているとか、生意気だとか、おかしな地雷を踏むケースもすくなくないのです。

長く居ることで信頼を得ることができれば、どんな上司にも改善を進言できる立場になることもありますが、ほとんどが我慢して、つまらない作業に時間を費やし、それでお金がもらえるなら楽でいいと割り切ってしまうか、別の仕事を抱える場合、時間が足りなくて追い詰められて苦しむかのどちらかです。

今の社員さんや先生同士のやりとりにもそれを感じることがあります。

大切なのは目的は何なのか、それに到達するために必要な最低限の手順を見つけ、改善すべき部分を相手に利益を示し、気持ちやプライドを傷つけない提案ができるか、といったまさにコミュニケーション能力が要求されるところになります。

ICT支援員は必ず必要になる。それは学校でも会社でも家庭でも関係なく。

 

ICT支援員…ICTタスクプランナーはいりませんか?そんな支援員を育てれば、もっと支援員の存在価値は理解されるのではないでしょうか。

 



支援員のキモチ【その2】

どんな仕事も初めての人には勝手のわからないことがいっぱいだ。

それが認知度の低い仕事なら尚更だろう。

務める側もそのサービスを受けるお客様も。

「ICT支援員」この名前は文科省が私たちのような学校現場でICT機器等のサポートをする人につけられた名前だが、未だこの仕事の名前は一律ではない。

「ITサポーター」「ITアドバイザー」「情報アドバイザー」他にもあげたらきりがない。

 私たちのような仕事は主に何か?名前から考えると、「パソコンを始めとする様々な機械のことを何でも相談していい人」といったイメージではないか。現に支援員として派遣された初日に毎度言われたのは、「いやー待ってました。なんでも聞いていいって伺ってます!」だ。

  

自宅のプリンタやネットの設定聞かれたりは日常茶飯事、自宅用に買うパソコンどこのがいい?と聞かれたりもよくした。正直電気屋さんに行って欲しい(笑)と思った。

逆にいえば、そこまでサポートできるのかわからない、スキルがないかもしれない支援員が、苦し紛れにサポートしたことが、大きな問題になったり、誤解を生んだりして、大変なご迷惑をかける可能性だってある。

雑談なのか、業務なのか。大事なのはお互いがそこをわきまえられないなら、明確に判断する術が必要だろう。

 

しかしながら、実は近年そういうご相談がかなり減ってきた。

支援員さんたちからそこまでの苦しみは全く聞かなくなった。もちろん地域にもよるだろうけれど、自分の管轄は、である。

それだけこの数年間で学校には多くの機器が配備されたということだとも思う。

つまり校務につかうパソコン台数が増え、つかう機会も増えたのと、自宅にパソコンがある人がほとんどになったので、パソコンによる事務作業については「通常作業」ということだ。

その証拠にこの夏、私が研修で回った自治体で簡単に質問をしてみた際、どの先生も自分で扱えるICT機器は「パソコン」だった。

だからこそ、「ICT支援員」は機械の操作説明をする人では益々なくなっている。

 

この仕事を長年していて感じるのは、文教向けの機器やソフトは、とにかく使い方が「わかりやすい」を優先している。いや、本当にユーザーにとって「わかりやすい」かはともかく、

●「日本語表記」

●「こどもをテーマにした可愛いデザイン」

●「ボタンを押すだけ」

のように、操作面でのとっつきづらさや、難しさを払拭するのに必死だ。

世の中の一般的なICT技術はものすごく進んで、特にゲーム業界などはデザイン性も備えていながら、幼児でも即座に操作できる。

いや、幼児だからかも知れないけれど。

初心者でも直感的に操作できるが、ユーザーが望むなら高度な設定までさわれて、だめなら不要なものを初期値に戻すなど簡単にできる。ソフトウェアはディスクを入れるだけ。もしくはネットワークでダウンロードするだけで使える。消してしまってもユーザーがわかっているから復活も簡単。

壊れたらサポート窓口に連絡すれば、交換、修理。有償の場合もあるだろうけれど、必要なら支払うし、ダメなら買い替え。

それに対して、学校のICT機器はどうだろう。

どちらかと言うと、苦手な人を意識しすぎていることはないか。これはソフトも同じ。

人間の行動としての、人間の身体の動き、そこに生活する人の動きを、一動作ではなく、流れで理解して開発しているところが本当にあるだろうか。(多少はそのつもりっぽいのもあるけど…うーん…)

ICT支援員は、今や機器の操作説明員ではない。そして修理屋でもない。だが、この二つを網羅していないと、スタートができないようなケースが多い。学校用、文教モデルなどというものは具体的にどんなことを意識して作っているのかといつも感じる。

正直一昔前に比べて、無線機器が増えたので、新しい技術は勉強も必要だが、機械の操作、ソフトの操作は、呆れるほど簡単になった。

支援員経験者であれば初めての機器でも大体当てがつく。それでも先生は「覚えられない」「使いにくい」と口癖のようにおっしゃる。

その実は、「使いたくない」「必要としていない」のではないか。

スイッチの入れ方、設置の仕方、設定の詳細まで知っていても、使ってもらえない。

どんなに簡単な機械を入れても箱から出すことすらしていないことだってあるのだ。

見てくれが可愛いとかボタンが大きいとか、そんな誘導ではない。もっと先生方が何にお困りか。機械抜きで考えてほしい。そして、学校という特殊な環境が、無理なく導入できて、長く使えなくては。

 

では活用が進んで、ICT機器をどの先生も当たり前のように使いたがっている学校は何が違うのか?

支援員の立場でいうなら、実は活用の進んでいる学校は支援員に相談に来る先生のアイデアで成り立っている。

運良く使い始める方がいて、その学校は活性化する。でもその先生一人に頼っていたら、いなくなったらそこで終了だ。

あんまりできの良くない素材でも、いいところを見つけて、なんとか使ってみてもらえたものは、その先生に縋るように、その先生のアイデアを盛り込んで成長して行く。

それによって、一定の地位を得た商品がその界隈でお山の大将になっているのが現状だろう。

 

支援員も同じだ。支援員が提案する前に、先生が使っているそれを見て、支援員は他の先生にご紹介しているケースをよく見る。

メーカーの開発に比べて、丸一日を学校で過ごす支援員は、そういった情報を日々目撃し、支援し、先生の思いを雑談も含め耳にして、持っているデータベースは段違いである。

 

私としては、そういった情報を蓄積して、支援員はアナログでやっている先生の授業のパーツをデジタルに置き換える想像力と、そのメリットデメリットを論理的に説明できるスキルが欲しいのだが、そこまで考えて支援員やってる人が一体どのくらいいるだろう。

私はそういうことを支援員にもっと教えて行きたい。それが今の立場では諸事情で、できていないし、それを今の支援員に要求するには、あまりに条件が悪すぎるのだ。

 

支援員とはその情報という宝を山ほど手に入れられる所にいる特権階級なのだ。

だからこそ、これからの学校にはICT支援員が必要で、その地位や待遇は保証されたものであってほしい。

 

ああ、でも支援員がすべてそんなスキルがあるかって、絶対言えないのが苦しいところだ。

それはお医者さんだって、先生だってそうなんだろうけど。やはり組織的に育成、トレーニング、そして更新が必要なんだろう。

また、こういうことに気づいたメーカーが、単なる情報収集のスパイ的に、安易に支援員を放り込むようなことをしないでほしいと願う。

先生をおだてて研究開発の時間を割かせて、誰が迷惑って子供なのだから。

ここだけは保護者として書くが、うちの子にはこの実験が正しかろうが間違っていようが、この学年は2度と来ないのだから。

 

先生や児童生徒、メーカー、そして社会。

この三つがみんな良い状態になれるような、そんな運用を目指したいものである。