授業支援システムは神か悪魔か

こんにちは。

みなさんは学校のタブレットやPCに「授業支援システム」というものが入っているのをご存知でしょうか?

 

SNSのお友達がこの、「授業支援システム」について、面白いノートを書いていたので、コメントしたかったんだけど、こんなに長くなっちゃって、やむなくブログに貼った次第です。

 

予備知識として書いておくと、私は行政関係や税務関係の書類が死ぬほど苦手だ。
字は読めるのに、ググれば良いのに、これまでわかっていても、めまいがするほど嫌いで適当にやっては怒られたり苦しんできた。
しかし、どうしても会社を起こしたかった。だから起業のための書類も手続きも全部自分でやった。そして、登記が済めば税金の手続きが待ってるのだ。
そこで相談しながらこう思った。

税理士さんも、ベンダーさんも、授業支援システムも、みーんな私からみると同じだ…。

貸借対照表とか決算ってなんだ?
「税理士さんに頼むといいですよ」
難しい会計処理もわかっていて税務署から怒られないようにしてくれます。

来年パソコンとかプリンタはどうすれば?
「ベンダーさんに相談するといいですよ」
見たことないネットワーク機器の選定や、必要なスペックなども調べて、自分では買えないレベルの数の品物を調達してくれます。

パソコン使って授業どうすれば?
「授業支援システム便利ですよ」
じゃあこれはどうでしょう。

「自分で考えるのが面倒」なことがビジネスになる。だってみんな自分でやりたくない。これから覚えるなんて辛いから。
そもそもできないこともあるから。
ただね、自分ではできないこともやってくれるからビジネスなんですよね。

授業支援システムは、目的と機能で細かく分けると(機能名は一例)

⚫︎こどもが勝手なことをしないように制御したい場合には、
「ロック」「ブラックアウト」「リモート操作」「画面転送」
⚫︎準備を楽にしたい場合には
「一斉電源操作」「配布回収」「教材テンプレート」
⚫︎端末ごとの環境が変わると次の時間に他のこどもが使うのに困る場合には
「復元」「一斉操作」
⚫︎一人一人の様子を見渡して指導したい場合は
「巡回」「モニタリング」「アンケート」「クリッカー
⚫︎いちいち席までいかずに指導したい場合
「介入からのマーキング機能」「メッセージ」「タイマー」
…まあ他の使い方もあるでしょうけれどこんな感じです。

こんな感じで使う人によって同じシステムでも、まったく違う。

正直20年前復元のなかったPCルームで夏の研修会やってた自分としては、復元は神だと思ってます。復元があるから、失敗してもなんとかなる。コンピュータの得意なことは、Ctrl +Z。やり直しがきくってところでもある。だから私は適切な設定さえすれば復元大好き。これのおかげで「何にもしてないのに変になった」がほぼ解決するんだから。
自由に外して良いならもっと良いだろう。それこそ一人一台になって、スキルがあるレベルに達した人は、機能制限を緩めてもらえれば良いと思う。未来の授業支援システムはこうであれば良いのでは。

タブレットになってから、画面提示の方法が有線から無線になると、授業支援システムでも、そのシステムから直接制御できる画面投影機器を持つものは、「投影」「提示」という機能もある。
スカイの場合サイレックスのAPは、スカイの提示コマンドで、サイレックスを動かすコマンドを呼び出せるからできる。

そういう専用の機器を持たない授業支援システムには、この「投影」や「提示」の機能は基本ない。

これらの制御機能に対し、「画面に描けるノート」などこどもが何かを作るための機能は、単体で販売されているものがとてもたくさんあるけど、それが授業支援システムにもついてるものがある。

いや、逆だ。
タブレットが出て、ノートみたいに描きたいなというニーズに応えて「ノートアプリ」がたくさん開発された。
ノートアプリが、「共有」機能を持つようになり、さらにそれが授業支援機能を持つようになったものが多い。
それに対して老舗の授業支援システムは、そこにオプション的にノート機能を載せた。
最近は学習支援ソフトとしてワープロ表計算、お絵かき、音楽、プレゼンなどの機能を持ち、人気を博してきたものが、授業支援機能を持ちはじめている。

それぞれが独立して分担していたものを食い合って、どれも似たようなものになってきたと思っている。

これらはつまり、先生方が「複数のアプリケーションを切り替えて使えない」と提供側が考えているから生まれてきたと思う。

こどもがノートで書き、作ったデータを共有し、大きく提示したり、他の作品に流用するために加工したり、複製したり。作品として先生が評価するために集めて、その評価を子供に返したり。正直どれもこれも、Windowsだろうが、iOSだろうが特殊なソフトはなくても、このあたりはできることばかりなのだ。

ここで不思議なのが「授業支援システム」は多くが苦手な人もできる、手数がかかることが軽減できる、そういうものなので、得意な人はそんなに使わなくてもできるよね?って思うのに、得意な人がこれらの機能をすみずみまで研究する人になってしまいがちだということ。
万能ソフトは、目の見えない人が触るゾウのように、実際の役目がそれぞれに違う。でも、一部の得意な人は、なぜか全部知ろうとして、全部使おうとするのだ。そのせいで、授業になったときに、授業自体や子供達の見取りよりも、そのシステムの使いこなしに目がいってしまうことがあって、公開授業などの時に限って、張り切ってやるので、システムのデモみたいになったり、うっかりネットワークにトラブルでもあろうものなら、すべてのリズムが狂って、それを見た人から「わざわざICTじゃなくても…」という定番の批評がついてしまう時もあるのかなと感じている。
これが、授業自体を重視する先生方からシステムが嫌われる原因の一つにもなっている。

そして、さらにうまく使いこなせてしまうと、そのシステムの欠点もわかるので、親切なことに、メーカーに向かってその点を指摘してあげたりする。その指摘が適切がどうかはともかく、メーカーはもうちょっと吟味すればいいのに、そこに振り回されて謎の仕様変更とか、オプションをつけまくる。
これが授業支援システムの肥大化のひとつの原因だ。

 

なんだか最近の授業支援システムは、そのデバイスを支配しているように感じる。他のアプリはなしで、その一個のアプリがデバイスを制するところまで突き進みそうな、そんな雰囲気を醸している。

 

子供は長い人生の中で、このたった数年の学校という学びのチャンスに、そこでしか使わないシステムで、ICTの本当の性質や仕組みは身につくのかな?と思う時がある。

だから個人的には、授業支援システムは、使いどころを考える必要があると思う。

 

授業支援システムは、ニーズがあったから生まれた。でも、部分的には「先生はパソコンが苦手」を前提にした作り込みなのだ。じゃあ今それを邪魔にしてる人たちが言うほど、現場でこれが嫌われてるか?というと、全くそうではない。「えっ!ないの?」と不安な顔になってしまうくらい、結構みんな好きだ。

じゃあどうすればいいのか?それは、先生が、ICT苦手じゃなくなればいいだけなのだ。そうしたら余計なお節介で儲けようとする仕事は無くなっていくだろう。

私も経理がわかるようになればいいんだ…無理っぽいけども…。

 

と、いうわけで、私たちICT支援員は本来の仕事に誇りをもって取り組むために、苦手な先生方がライザップほどじゃなくていいから、普段使うのにそんなに困らないくらいの「結果にコミット」できるトレーナーであれば良いのではないか?と思うのだ。

それは研修というよりトレーニングだ。
甘えすぎにはちょっと厳しめのサポートをするような支援がしたいのだ。それを胸張って主張できるためには、裏付けとして高いスキルが必要なのだ。
お尻を叩けないといつまでも学校は変わらない。私の思うICT支援は、寄り添って甘やかして背追い込むのではなく、免許がなくてもできることは肩代わりしてもいい、でも、免許がある人がやるべきことで、ICTスキルが足りず無駄な苦労をしてるなら、少しでもできるようになってもらって、先生のスキルをあげることが、この悲劇を生まないための最善策ではないのか?と思うのだ。

 

そして、授業支援システムは、その役割を使いたい人が使いたい時に使う、そんなスタンスであれば存在意義はあると思うのだ。

もう一度各メーカーはこれを考えてみてはいかがだろうか。

 

 

 

 

今、現場を支える人間は何を考えるべきなのか?

全国の学校が休校要請にどう対応したか、私たちICT支援をするものにとっても大きな出来事でした。

 

休みになってしまった学校で、じゃあこれからオンラインだ!と言っても、これまで連絡は紙のお便り、電話、あって緊急メールくらいだった学校は、そこにいないこどもたちにどうやってアカウント登録の仕方を伝えるのかなと疑問に思った。

以前学校調査アンケートをGoogle formでやろうとしたときに、まずお便りでQRコード配ろうとした。そこでの問題点は以下の通り。
⚫︎学校にアカウントがないので、作らなくてはならなかった。
⚫︎保護者がQRコードの読み取りかたを知らなかった。
⚫︎そもそもお便りが届かなかった。
⚫︎今までと違ったこと自体に戸惑って提出に時間がかかった。
など。
⚫︎サーバー入れ替えでフィルタリングソフトの設定をかえてしまい、これまでクラウドNGにしてなかったのに、特に根拠もなくNG設定にしてしまった。
Google formがクラウドだという認識があったはずなのに、だ。
こんなこともある。ICT支援員さんからの連絡ですぐに修正が入りその日のうちに改善した。

次にこれらを回避するために、

⚫︎緊急メールにリンクをつけて送り、改善した。

それでも100%は達成できなかった。リンクを押しちゃダメみたいな抵抗感があったのか?もしかしてGoogle formみたいなものをやったことがなくてできなかったのか?
そこはまだ調査できていない。

意外だったのは、学校の管理職が、「やっぱりだめじゃないか!やめる!」とはならなかったことだ。
嬉しかったし、まだ来年も続けるために改善策を検討中だ。

さて、今回の大規模な休校で周りの保護者の反応は様々。
学校が休みになって困っている保護者は自ら問い合わせてくるけれど、多くが目的は子供の預かり場所だろう。

すごく憤慨している保護者もいるのを見ると、いかに学校が社会的に「保育所」としての機能を強くしてきているか感じる。

最近学校って保育園みたいだなと思っていたのでやはりそうなんだなと確信した。

 

逆に休みでも高学年だと、通常運転で保護者は仕事に出かけているかもしれない。
親と同居していて、見てくれる家族がいる場合はあまり困っていない感もある。
「勉強が!!」という反応も、受験が終わった今なので、そこまで聞かない。
卒業式が流れたりした場合はかなり感情的な部分でTwitterなどに悲しみを書く人がいて、ファボやリツイートが多い。

自分も、無料になったコンテンツをシェアしたけど、今考えると、子どもは学校が休みになって悲しんで勉強したかった…と涙してるか?というと「やったー!やすみだー」という気分だと、興味なしかも。
盛り上がるのは「学ばせたい」先生の方だけではないか?
なんだかそれぞれがバラバラの方向を向いているなあと感じる。

「暇」になったんだということに気付いていないから、何もしないでイライラする。どうしようもないことをTwitterでガーガー叫んでも国は動かない。動いたとしても個人の満足悪対応など、あるわけない。

それなら、できた時間を使おう!と頭を切り替えていきたい。

 

4月にこれが落ち着くなんて保証はないけれど、子どもたちや保護者に、アカウントを「学校から」発行するには、事前にサーバーへの設定が必要になるし、その後の運用は、専任の管理者がいないと大変難しくなる。※普段自分でGoogleからGmailアカウント作ったりするのとは違うので注意。

私の子供の頃に比べて、学校からの指示というものの効力は強くない。良し悪しにかかわらず、「やんわり」が多くなったと実感する。
「子供にアカウントを付与します」
この通知を出すだけで、とてもたくさんの問題が発生するのはすでにやっている先生から伺っている。

子どもはゲームでもやっているから技術的にはできるはず、と思うだろうけど、ゲーム機の設定は保護者がやっていて、子供には勝手にやらせないとしたら、未経験になる。低学年は特に。
そして、家でスマホやゲーム機を教育方針として禁止しているところもある。

固定電話すらおかなくなってきた若い世代の自宅にWi-Fiなんてあるのか?

 

こういうバラバラな状況だから、国から一律にタブレットを配布すると宣言することで、最初の一歩を踏み出すことを促せるのかなと改めて思った。そう考えると、やはりキーポイントはアカウントだ。

アカウントってなんだ?という状態で、オンライン学習とか、遠隔授業とか、反転学習とか話題になるものが良し悪しにかかわらずスルーされてきた上に新しい学び以前に理由のないルールが山ほどあるような学校では、(地方によって個別のルールがあったり、多くが慣例になってるだけだったりするが、多分全国で様々なそれがある)そうでもしないと進まないだろう。

そして、学校がやるための後ろ盾はできたとして、実際に手を動かしてみたことがある人はいるか?口だけでいうのとは違う。
各学校単位で、多くの作業や手順を考えたり、各方面へ配慮する事態をどうやって乗り越えるのか?

こういう時に経験やアイデアを持っているのは、すでにやってみたい自治体、学校、そして、そこを支援したICT支援員さんたちだったりする。
ICT支援員さんは現在スキル差が大きすぎて、手放しで期待することはできない。
しかし、これまでも学校が困ったなぁとやりたいことができない時に、いいアイデアと行動力を発揮してきた人たちが全国にたくさんいる。

これはICT支援員さんたちへ、この仕事をやってみたいと思う人へのメッセージのつもりだ。

ICT支援員さんは何でも屋にしてはいけない。けれどそれは雇う側、扱う業者側に理解してほしいこと。
法的に、セキュリティ的になど、人手が欲しいだけで、やってはいけないことまで押し付けるなという意味だ。必要だから法がある。
プロフェッショナルとして学校の事情も保護者の事情も知っていれば、ICTの知識や調べる力が威力を発揮する。そして肝になるのは「どれは共有して良い情報か?」を見極める力だろう。日本を変えるために教育を変えるなら、トップダウンだけでは無理だ。すでにアカウント配布を経験した人たちの知見、技術面だけでなく、トラブル事例もあつめて、なるべくあちこちで同じつまづきをしない方法が必要ではないのか。
そして新たなトラブルに迅速に対応する体制が必要ではないか。

だから私たちは、先生の肩代わりも、事務員も、セキュリティ技術者もやらないので、学校にはアカウント管理やセキュリティを担う担当者が専任で必要で、機器やサーバー、ネットワークに関しても安心して頼れる保守があって、その部分を任せられる状態で、はじめてICT支援員さんは、現場で学校に関する法令、教育技術だけでなく、担当するその学校のもつICT的な機能とそれに関するできること、やって良いことを日々たくさん学び、ICTのできることをマッチングさせてアイデアを出せると思う。

これまで、ICT支援員さんは、保守の不在、管理者の不在により、やってはいけないことまで、やらなくてはならなかった、でも、できてしまうと麻薬のようにはまっていってしまっていた。

ICT支援員さんは3年以上やれば、かなりICT操作の経験があってほしいし教育ICTの新しい技術を学んでいてほしい。先生方のご苦労を直接見ているのだから、学校から見てどんなことが負担になるのかなども、先生方と、私たち現場に直接足をつけて立っている人たちで一度議論してみたい。
自分が国のために働きたいと思うのは政府のためじゃない。自分がここに住んできたことへの恩返しでもあるし、自分の子供や周りの人たちがこれからも自分の国を好きでいてほしいと思うからだ。

「好き」を作ることを一緒にかんがえる

こんにちは。今日は自分が起こそうとしている小さな会社のことを考えながら思ったことをメモしています。

AIにできなくて人間にできることは何か?なんて記事が最近とても多くなってきましたね。

AIに奪われない仕事とか。AIが自らAIを作り出し、育てるようになる未来とか。

私の作る会社はAIに奪われる仕事かなぁ。10年後にはいらない仕事かなぁと思い、弱気になったりして、改めて考えています。なんでこれやろうと思ったんだっけ?と。

ICT支援なんて貧困ビジネスになってる隙間産業を立て直すことなんてできるのか?というかそんなことして何ができるのか?

自分で納得してるはずなのに定期的にこんなことを自分に問います。

多分私は、パソコンが好きで、コンピュータは夢をかなえてくれると思っていて、ICT支援が「好き」で、パソコンがうまく使えると良いことがいっぱいあって、子供たちが「パソコンだー!やったー!」ってテンション上がる姿が好きで。

なのに使えば簡単なことも、使わないで苦労していたり、使いたいこどもや先生たちや保護者からもコンピュータを遠ざけたり、取り上げたりしている人(これは先生だけではない)との溝をなんとかしたいからだと思ったからです。

その理由の一つには、日本はコンピュータの利用に関して、世界的に遅れているということ。「うちはうち、よそはよそ」という段階ではなく、できる人まで押さえつけてIT業界の人手不足と、待遇の悪さ、スピード感のなさに絶望し、できる人は海外に逃げていってしまう状況です。

これを何とかするためには、自分が使わないのは自分の自由だ!という一見正しい主張の裏で、使いたくないために、その結果他の人まで苦しめていることに気づかない人に、納得してもらうための考え方を伝える技術がいる。「使いたくない、苦手で使わなきゃと思っても手が付けられない先生をサポートする。」そこがICT支援員としての仕事の一つだと考えています。

 

使いたい人には、なぜその使い方が嫌われているのか、なぜ遮られてしまうのかを理解してもらって、納得して使いたい人が使わせてもらえる学校を、ひいては社会をつくりたい。

その根底にあるのが「教育」であり、学校のみならず幼児期からの教育、これを変えないと、日本はPCをヘビーに使う人を新人類、異端者、変わり者、オタクで、使わない人が自然派、健康的、ナチュラル、心を大切にしている、学力が高いなどの間違った認識がいつまでも払拭できず、そのどちらのグループも究極の人たちだけが幸せを手にして、どちらにも振り切れなかった、何についても中途半端で、自分を「普通・一般的・特になにもできない」と自己肯定感も低い、最も多い中間層が増えれば、日本はどんどん貧困で不幸になっていくと思ったからでもあります。

極端かもしれないけど、今の若い人をみていてそう思うのです。併せて女性のICT活用率についても気になる。

スマホInstagramとかTikTokとかにどんどん写真や画像をアップして、加工もして、一見【ICT】へのハードルが低いのは女性の方なのに、プログラミング・PC操作などのいわゆる【IT】になると「えっ無理無理〜」とハードルが上がる傾向が感じられます。使い方をみていると、これまで苦手といっていた人は【C】があるからスマホを手にするのだと感じます。【C】が好きな人はスマホに移行しやすい。様々な壁を壊すのには【C】の力が不可欠だと感じたのです。

そこで、【C】ってなんだろう?と思いました。ICTのCはCommunicationのC。

でも、もう一つCreationのCでもあるのではないでしょうか。私にとってコンピュータは絵を描く道具として存在しました。だから私の考え方は絵を描く人に偏りがちです。それはお許しください。

実際にネット上には、スキルの差を超えて、デジタルで描いた絵をアップしている人たちが交流を深めています。私の娘たちもそれで仕事を得たり、新しい出会いやスキルアップの機会を手に入れています。様々なCriationは、ネットを通じて人と人をつなぐ一つのきっかけになっているでしょう。

しかし、今の日本では、コンピュータをCreation(文書・音楽・物づくりなど)には使わず、Communication(チャット・ゲーム)にはすごく使っているという調査結果が出ているそうです。あれ?惜しい!【C】で活用率が上がりそうなのに!だって日本人はモノづくりが好きな人が多いのではないでしょうか。

 

この活用は、授業でもそうじゃないでしょうか?

「入力は手書きでいいよね」→タイピングができないから従来の方法に寄せる。そのために手書き認識という技術が生まれました。

これは開発側の技術は上がりますね。これまでできなかったことをさせるために考えますから。利用者側はどうでしょう。文字を書くだけ、編集なし、複製なしの使い切りなら、紙にペンで書いた方が電気もいりませんし、いつでもどこでも書ける。一般の利用者のコンピュータによるCreationのスキルはあまり変化しません。手書きは画面内で書ける・読める文字数にも限界があるし、文章をコピーしたり入れ替えたりするには便利ではありません。コンピュータが人間に合わせて、非効率的なことをなにがなんでもやることを人間がコンピュータに強いているようにも感じます。

しかし手書きの機能は私たちアートを作る人間には画期的な発明でした。コマンド入れてプログラムしないと書けなかった自由な曲線が、ペンで描けるなんて。これは創る人にとってはすごい恩恵をもたらしました。

一方で、文字入力は長い文章を書くことを考えると、昔の小説家に象徴されるような、原稿用紙を書いてはぐちゃぐちゃと丸めて捨てて、また書く、訂正線を引いたり、修正液でけしたりしてまた書く。汚くなって出版するまでに清書や活字化や長い時間を要しました。でも今はちがう。文字データになっていれば、清書も楽々。書籍にするのもデータからできるから紙に手書きに比べ作品はどんどん世に出せます。

だから文字データで文書を書くことは人に仕えたいものを作るのには必要なスキルだと思います。

(売れっ子作家は休みがほしいからスピードいらないと思うかもしれませんが)

 

次に学校特有のアプリとして、よくある機能が「子供が書いたものを集めたり、配布したり、提示したり」→Communicationの部分での活用であり、Creationではないと感じます。

でもこれまでの作業時間を極端に短縮して、その空いた時間を有効につかえる授業に組み替えられているなら、意味のある使い方です。前述のこどものCriationが素早く共有されることでほかの子にも学びにつながる刺激になるなら。

 ここで、だれかの作ったものをみんなに共有することによるいい面と悪い面があります。

良い面は、なにも思い浮かばない時にヒントをもらえたり、これでいいんだという安心感を得られる点でしょう。

しかし、物を作る身としていつも疑問になってしまう点が、なんでもみんなで…って一人で考える時間を与えてくれないことです。

作る人間は自分で考えたい人が多いです。それもじっくり。そして自分なりの主張があって作るものに他人の手が入るのを極端に嫌います。

また、自分の思いついたものや試行錯誤の軌跡を人に見られたくない、「鶴の恩返し」みたいな「できるまで見ないでね」という気持ちがあります。なので、共有は必ずしも良いところばかりではないのです。

 

そういう意味もあって、学校でCreationのためにコンピュータを使うシーンとして昔から思い浮かぶのは、「お絵かき」「名刺やカレンダー作り」などがあるかと思いますが、よく見るとこれまでのアプリには「何かを作る」ことにも使える機能があるのに、なぜパソコンの操作練習のためにしかやらないか?というと、今の日本はとてもやりにくい環境にあるからだなと思っています。

 

自分自身の「好き」を作り出す力は人間にしかできないことなのに、「好き」を作るのではなく、もらうのを待つ人ばかりになってしまいそうなのが今の日本なのかも知れない、そう思いました。

作る側も誰かの「好き」を作るのが得意なのが日本の特徴だと感じました。

でも、それはこれまで「人の役に立つような人間」を作ってきた日本の教育が作り上げた人の中で、作る技術を身に付けた人たちです。

作る技術は貰うだけの人よりは高まるけれど、いまや平面だけでなく、立体も、コンピュータで作り出せるようになってしまったから、誰かが欲しいものを作る技術は、手足の運動能力に左右されるものは価値がなくなっていくような気がします。

だから形があるものを作るのではなく、それを作り出す技術を作る。多くがコンピュータの力で解決されていっています。だからこの中を司るプログラムを作れる人、そしてプログラムもそのうち自動でつくられるなら、それのもとになる人は誰でしょう。

 

それは「アイデア」がある人ではないでしょうか。

これは人間から生まれるものかなと思います。

自分のアイデアは、変に理詰だとつまらないものになってしまう時があるなと日々反省です。アイデアは直感も含んでいて、実際にやってみないとわからないものでもあります。

だから「アイデア」不完全であり、「アイデア」は試さないといけない。

試して初めて「著作物」になるのですよね。試したものにはその人にとっての成功と失敗があるかもしれません。しかし、「偶然」というのもあります。

二度と作れないものがこの世には沢山ありますから。これが人間の生きる楽しみであり、驚きや幸せになるのかなと思うのです。

 

デザイナーとアーティストの違いという話もよく目にします。違い、あなたはどう思いますか?デザイナーは「問題解決」つまり「あなたが望むものをつくります」であり、アーティストは「問題提起」「私はこれがいい、あなたはどう思う?」なのかなと自分では納得しています。答えはない。展覧会をやる人やネットに上げる人は、社会に「これどう思う?」と出しているので、「好き」と「嫌い」に別れれば一定のファンがつき、お金になる。でも「興味ない」となれば商売にはならない。今はここにマーケティングという技術を売る人がいて、それがまた一つの商売になってお金が流れているけど、これもなかなか思ったようにはならないですね。売る人の理屈で自分の主張を曲げろと言われてしまう時もありますから。

 

アーティストの作品には好き嫌いが伴うから、私が気持ち悪いというものも作って世に出ていても当たり前。誰かが気持ち悪いから出すなという権利は無いと思います。答えはないんですから。見たくない人は見ない権利もあります。

 

そして、自分で作らないものに対しては、自分の満足を求めて購入をするでしょう。

「好き」だから不要でもやたらと買い集めたり、試しては使わずにため込んだり。

作る側の人も自分で作っていないものは、お気に入りが決まるまでたくさん買ってしまったりしますね。試して「お気に入り」を見つけたいから。

そういう意味では断捨離で有名な方々は「選び方」を極めた究極の消費者かもしれません。自分はダメダメ消費者なので、家がちっとも片付きませんが。

 

消費者は誰かが提供する「好き」が現れるのを待っていますが、提供者は職業である場合、ひとりのためにいつまでも商品は作り続けられない。しかし、消費者は「好き」がなくなってしまうと怒り、悲しみ、また次を探す。同じものをずっと好きでいられないのは、満足していないからで「好き」が枯渇している人たちは、「好き」を手に入れる近道を教えてくれる人に熱狂的についていくのでしょう。

 

ここで、学校はこの「好き」に対してどんな社会的役割をもっているのか?と考えてみました。

これまでの学校の学びは、誰かの「好き」に応える技術。

しかも、その中でも「誰かの好き」ではなく、大人はもう答えがわかっている、誰も好きでも嫌いでもなく、普遍的な答えを出す方法を学ぶ、つまりお絵描きで言うならなぞり書きの練習だったと思います。お手本の線からいかにはみ出さないかを競う。白いところも埋めたくても、それはいたずらとみなされ止められる。無駄なく、素早く、はみ出さないのが一番。

 

しかし、この学びが全て間違っているとは思っていません。なぞり書きや模写は筆記具や画材という便利な道具を使いこなすことと、目から入った情報を頭を通って手に出す運動の訓練ですから。絵描きの自分としては、絵が上手くなるにはたくさん描けというのは、その運動能力の開発のためだと思っています。だから最近描かなくなって私は絵が描けなくなったと感じてます。残念ですが。手を動かして作るものは物によってはスピード、質ともに機械を超えます。なので、手で描きたいなと思うこともあります。

でも、センスや感覚は記憶に残っているので、パソコンがあれば、概ねうまく絵が描けます。肉体の衰えだ部分をパソコンが補ってくれますから。でもどう表現すると、本物に近い絵になるか、どう表現するとカッコよく見えるか、どう表現すると自分が綺麗と思う絵になるかわかっているから描ける。この目から入る情報が手に伝わる前に、頭の中で変換される部分に個があるのです。その変換で、人は「好き」「嫌い」を決めるのだと思います。

しかし、そこに、他人からの評価が加わったとき、自分の「好き」は変わります。外からの「これ気持ち悪い」「下手」「変なの」という言葉が、「好き」をねじ曲げてしまう。出せなくなって隠します。こっそり描き貯めたり、描いては捨ててしまう。失敗作と言って。

 

だから私の個人的な考えとしては、学校は「好き」を作れるようになるために、その方法を学んだり、「好き」の種を見つけるために色とりどりの経験をするための道具や機会が潤沢にあるべきで、社会に出たら存在するはずの様々な道具があっていい。学ぶ機会に経済的な格差が既についてしまった今、学校はそれを公的な機関としてそこに来るこどもに平等に機会を与える役割を担うのは良いことだと思います。

そのために公費でこどもたちにPCを配る。でも、これが前述の通り、理由のない制限や機能の足りなさで、CommunicationにもCreationにも結びつかないなら、意味がなくなってしまいます。そして、これを大人がその使い方を理解しないままに制限をかけたりしたら、こどもたちは可能性を手に入れられない。

 

だから、ITがCreationと結びついた時、その子の選ぶ「好き」は誰も制限する必要はないのだと思うのです。だから人の「好き」に上手い下手をつける必要はない。しかし、もっとやりたい、もっと自分の技術を突き詰めたくなった時、学校はもう手を離していいと思っています。

そこで初めて「チーム学校」という言葉をかりるなら、学校内ではなく、学校の外で突き詰める場所を提供する外部協力者がいればいい。

その子がその道を望んで突き進めるなら、もっと早く学校を卒業して社会に貢献してもいいのではないかとまで思います。いつでも学校に戻ってこれるならもっといいなと思います。

 

他人の「好き」が自分の「好き」とは全く違っても、その違いを「悪い」と言う必要はなく、「この人はこれが好き」という情報でそれ以上でもそれ以下でもない。
人間の生理的な感覚で心地よいと感じるものは「好き」と思われやすい。
心地よさにも個人差があるから、似たもの同士は自分の「好き」で繋がり、また心地よいから集まる。認め合えるから。または自分がすごいと思う人に存在を認識されたいからって人もいるかも。


しかし、この「好き」の集まりが大きくなってきた時に、周りに同じ「好き」を持つ人ばかりになってくると、違う「好き」が現れたときに、共通点を探そうとする。「赤とピンクはどっちも赤が入ってるから赤の仲間だよね。混ぜると赤が濃くなるけど綺麗」
でも真反対の色だとどうか。絵具の場合、緑と赤を混ぜると濁った茶色で、あまり綺麗に見えないと思う人が多いかもしれない。
でも、赤と緑はチューリップを描くときによく使われるように、綺麗な配色として感じられる人が多いと思う。
別々なら綺麗。混ぜるとうまくいかない。そばにいると合わせて綺麗。

赤に近付きたいから混ざるのも個、似ているけど混ざりたくないのも個。全く違うなら緑の仲間で集まるのも、一人でいるのも。

 

今、学校が「好き」な人はどのくらいいるだろう。なぜ文句をいいながらそこにいるのだろう。こどもたちに聞くと、「カーストやいじめがあるからあまり好きじゃない。」という子もたくさんいる。教育を変えるヒントはこれなんだろうなと思います。すべては考え方。

これを広めてきたのも学校ではないでしょうか。全国にこれだけの拠点があって、国が決めたことを元に作っていくカリキュラム。

これが機能していれば、こんなことにもなっていないかもしれませんし、国が出している方針は果たして現場に伝わっても腑に落ちる説明になっているのか?
こどもや保護者は「法律で決まっているから」行かざるを得ないので行くのでしょうか。長い間積み重ねてきた歴史の中で「学校に行くのは当たり前」だと思っているからの方が近いのではないでしょうか。法律だからなら入学祝いとか入学式とかを華々しくやるのは、国の戦略か?とまで思ってしまいますよ。

 

このGIGAスクール構想において、私たち現場はあらがうこともできずきっと進んでいくでしょう。でも「こんな予算じゃ何年も持たない」ではなく、「OSはどこがいい」でもなく、ITがICTになるように、CriationとCommunicationのためにITを活用する知識や技術、そして考え方というものを広めようとしていないと、きっと誰にも伝わらないのだとおもったのです。

ICT支援員って何をすべきなのか。SEレベルでコンピュータの専門家でないととか、人柄がよくないととか実は漠然とした基準しか語られていないのです。

ICTをI【C】Tとして、こどもたちが未来を生きるためにその恩恵を受けるには、考え方を伝えられなければならない。

だからICT支援員さんたちに必要な理念を伝えたい。

もちろん一定レベルのスキルは必要です。人と関わる以上そういった能力も必要です。でもこの「理念」を一つにしなくては多分どんなにPCにたけていても便利な小間使いにしかならず、これまでそうやって来た支援員さんは、先生でなく、自分のスキルがどんどん高くなって便利で頼りにされるのに、学校はかわらない。

そんな風に何十年も堂々巡りになっていったのかなと思っています。

ICT支援員はCriationとCommunicationの部分を支援できる知識があるといいのではないかと思っています。

それにはITの知識だけではなく、情報モラル・セキュリティ・クリエイティブなことに関心があることなども必要かもしれません。

だから自分の会社にはSTEAM部門を設けています。

STEAM部門は幼児教育へのSTEAMプログラムの提供です。

私の会社はICT支援員さんになる人だけでなく、いろんな方と大きなコミュニティを作って、この学校を中と外からサポートする、そんな会社を作りたいのだと思っています。

 

 

 

 

【ICT支援員さんのお仕事によるスキルアップの軌跡を振り返る】

こんにちは。ICT支援員さんがこれから増員されそうです。良くも悪くもやることが山積ですが、ICT支援員さんをやってみたい人はちょっとこれを読んでおいてください。

私たちの役割はまだ正直明確になっていません。みんなが好き勝手言ってます。

でも、私たちは少なくとも「学ぶ」ことを理解して身につけている必要があります。

 

学校で支援員さんとして何かを聞かれたとき、私は何をしてきたのか?
はじめの頃味方はインターネットか本屋で立ち読みする本しかありませんでした。本にもものにも投資はしましたが、稼げるようになるまではそこまで何でも買えませんでしたしね。

さて、問題にぶつかった時、先生から全く知らないトラブルを相談された時。学校では何をしなくちゃならないか?というと、

 

①検索する
②試す
言語化する
④教える
⑤記憶・記録する
⑥再利用する
⑦応用する

 

このような工程を決まった時間内で何回できるかを試されます。時には平行処理もしています。学びのプロの先生方にはこの手順は当たり前のことかもしれません。

つまり、単純に、これが繰り返せたらあっという間にスキルが上がります。

 

誰かが質問してくれる方が、自分は調べて新しい知識と技術が付きますから、わからないことを質問されることは自分としては大好物でした。

 

私たちは、ICT支援員だけではご飯が食べらない人も多いから、まったく別のお仕事もしている方がたくさんいます。常駐ではないので、特殊な学校の機器は訪問した時しかさわれません。私も始めた頃はまだ三女が幼稚園で、上に小学生の子供が2人いました。帰れば家事があって、使える時間はすごく限られていました。だからこの仕事ばかりやってるからできるというのはちょっと違います。

でも、私が知っているスーパー支援員さんはそういう境遇の方が意外と多いです。
子育てや他の仕事を犠牲にしているか?といえばそうでもない。

 

ICT支援員さんは、学校でまずコミニュケーションが必要などと言われますが、せめて話しかけやすい雰囲気は作っておきたいですね。

これはまた別途。

 

さてここで、
①から⑤が高速化すれば、その支援員さんにはたくさんの情報が蓄積されます。
支援員さんには会社で雇うなら会社のスマホとかタブレット貸与してほしい。丸腰自前は危険です。

支援員さんは先生や子供に聞かれたら解決策をお伝えする必要があります。


③④があるため、言葉にでき、アウトプットをすることで記憶として定着します。つまり⑤がスムーズになります。
ここはトレーニングが必要でしょう。

 

⑤ができてる人は、⑥ができるから、もうら①から③がいらないので、もっとスピードがアップします。


さらにトラブルに関しては、⑦として、それが発生しないためにはどうすればいいのか?と考えられるようになれば、仕事は簡単になっていきます。
イデアに関しては、他の教科やシチュエーションでも使える技を蓄積できていれば当然引き出しは増えていきます。

 

①②が不十分だと、そのあとは完全にストップですよね。だから検索は無駄にフィルターされず、ネットワークは速くなくてはいけません。同じことが先生にも子供たちにも当てはまるので、GIGAスクールで端末を手にすることは悪いことではないと思っています。スピード重視で。

 

②で検証をすることもとても大切。実機を使う、操作してみる。学校の環境でも通用するか試す。どの端末でも可能か確実にできるパターンを探すと同時に、できなくなる条件なども見つけられます。
私は個人で買えなかったから、電気屋さんや、学校の休み時間で触って覚えました。

 

③と④は、言葉の力が試されます。
マニュアル作成をするなら、Officeソフトなどのドキュメント作成能力が問われます。

 

⑤では、また聞かれた時のためにデータを取り出しやすくしておくスキル。古いデータを更新しておくスキル。昔はノートでした。

 

⑥を踏まえて保存形式も意識します。リサイクルしやすい工夫を考えると良いです。
画像にしておくとかPDFにしておくとか。

⑦で、蓄積した情報を組み合わせたり、出会った条件に当てはまるよう工夫をします。
また、トラブルの場合、②でどうしたら起きないかがわかれば、予防の対策を提案できるかもしれません。

 

このサイクルがスーパー支援員さんを育んでいるものですが、今圧倒的に足りないものがあります。それが、
【⑧共有する】です。他の先生に共有、こどもたちに共有、管理職や委員会にも共有、支援員さん同士でも共有。


多分これまでの学校ICT活用の推進がうまくいかないのはここが止まってるからです。支援員さん同士もそうですが、学校内でもやってる先生と未経験の先生が極端なのは情報が届いていないのも一つの原因ではないでしょうか。

そして、「やらねばならない雰囲気」も必要です。いつまでも自分だけはやらずにスルーなんていうのは学校全体をストップさせかねません。

 

これから必要なICT支援員さんを十分に機能させるには、これらの体験を通して自分で蓄積していく、「学ぶこと」のステップを身につけていない人には、事前に教えたりトレーニングしておく必要があると思います。できる人も、このように言葉にして仕組みを理解すれば、教員研修もある程度トレーニングすればできるようになるでしょう。


ICT支援員さんは学校のICT活用のプラットフォームを作る人になってくれたらいいなあと個人的には思っています。

他にもこれができたらいいよ!っていうものは出てきますが細かいものはまた追って書いていこうと思います。

 

【iPad研修してきました】こんな研修いかがですか?

昨日の研修会、私の方にはもう何週間も前に日程連絡きてたんですが、何故か現場には今朝連絡が…慌てふためく先生方。

 

事前打ち合わせは少ししましたが、やりたいことや聞きたいことやたくさんあるし、iPad使ってる先生とまだあまり…という先生の差が大きいのが悩みということで、こんな研修をしてみました。

Facebookで書いたら思いの外悪くないようでしたのでこちらにも転記しました。

よろしければお読みください。

いつもながらの殴り書きです。いいまわし等怪しいのは皆さんの頭で良い解釈をw

 

【激長ですみません】読みたい方だけ
今日の研修報告。

本日のiPad研修は、導入からまだ数ヶ月、もう結構やってるよ!っていう先生と、まだあんまりやってない〜どうやるのー?っていう先生ごちゃ混ぜで、しかも、研修の連絡が、委員会から行ってなかったらしくて、急な開催になってしまいました!💦
なのに、20名近い先生がお集まりいたたいたので、せっかくですから、ちょうど考えていた、一斉でもグループワークでもない研修をやってみました。

どんな研修か?って言いますと、この学校はもうすでに何人かは触って授業をしているそう。
研修って、個別の質問は最後にやることが多いですが、初っ端から質問タイム!みんな一人一台iPad を持って聞きたいことを質問してもらいます。
最初はちょっと設定が悪いところなどが出てきたので、まずはすべて記録してこれは報告。なるはやで対応。

次にアプリの使い方。「iMovieで、編集したんだけど撮ったビデオの音が小さいんです。」
「では、先生のファイルを見せてください」と、プロジェクターに繋いでみんなで見てもらいました。
プロジェクトが表示されると、おや?動画が読み込めずびっくりマークが。
「あれ?保存されてたのに?」
いきなりいい展開です。なんとラッキーピンチこそ覚えるチャンス。

「先生、その元の動画はどこにありますか?」「カメラロールにあったけど、もういらないと思って消しちゃいました」
ここで、iMovieはプロジェクトの状態ではまだカメラロールの画像や動画を参照してるため、消してしまうとプロジェクトからも消えてしまうことがみんなで確認できました。「先生、このエラーを出してくださったので、みなさんにいいお話ができました!」
※ちなみに、消してしまった写真は、最近削除した項目にまだ残ってます。復元をするとプロジェクトも復活します。
はじめての方のためにちょっとだけ動画を取り込んでプロジェクトをつくるところをやっておきました。

では、話を戻してビデオの音。たしかに最初のオープニングでかかるBGMはすごい大きな音なのに、ビデオの声は小さい。
見回すと一人の先生が隣の人に音声メニューで調整できると説明していたので、「あ!先生、さすがご存知ですね?よろしければ前に来て今おっしゃっていた操作を私にも見せてください」と前にきていただき、音が大きくならないという素材がある、iPadで音量調整の仕方をご披露いただきました。この先生はかなり実はやっていらして、音やビデオのカットや音量調整の工夫まで、お願いしてなくてもたくさんご披露してくださいました。「おーー」「なるほどー」と声が出て、最後は拍手も出ました。

次は「こっちのiPadで撮ったビデオを私のiPadで編集したいんですけど。」するとあちこちから、「あ!それはAirDrop!」と声が上がったので、「では、やってみましょう」と声をかければすぐにできる先生がその先生に教えてくださいました。

他の何人かも知っているけど、やったことなかったそうで、「未体験の方はいますぐここで実際にやってみてくださいねー」と声掛けしてAirDrop大会になりました。「写真だけでなくページやファイルも飛ばせた!」と改めて自分でやってみて、うなずいておられました。この調子で出てくるアプリの基本操作を私が補足しつつ、色んな先生にやってること、つまずいてることをシェアしてもらいました。

一通り質問が終わり、次はもう授業でバッチリやってるよ!という先生の事例。Keynoteでプレゼンテーションをやりましたという先生にご自分のiPadを持ってきていただき、児童の作品をお披露目していただきました。
「調べ学習でお題をいくつか出し、それぞれが知りたいことを各自で調べて、まとめを発表するんですが、発表からの後でみんなで使えるデジタル辞典を作ろうとやっています。」
そのスライドを見せていただきながら、
「この写真はどうやって貼ったんですか?」と私から質問をして、みんなの前で、こうしてこうしてと操作を見せてもらいながら、他の先生も自分のiPadでやってみる。「お、わかったわかった。Keynote簡単だ!」と声が出ます。

さらに、動画が張り付けてありましたが、この動画が、ただのカメラで撮ったものではなく、「画面録画」。
キターーー!みたいな。早速そこで止めて、「先生、この動画どうやって作りましたか?」と質問して「撮りたい画面に来たら、上からこうやってコントロールセンター出してー…」と画面録画の手順を示して、ほしい動画を撮って貼るまでをやっていただきました。
補足としては、コントロールセンターは右端辺りから真下に引き下げること。
画像はカメラから直に貼れるので、そのやり方、手書きを加えられること、そしてみんなで音声入力もやってみました。
(本当はclipsやるつもりだったのに、何故かアプリが消えてしまったらしく、今回は断念)さすが先生、すごくいい活用されてます。

次にやはりKeynoteですが、2年生の物語を作る授業で、虫や小さい生き物が住んでいそうな場所を探して、お気に入りのシーンを小さな生き物の目線で撮影して、それを背景に自分で手書きのキャラクターを少しアニメーションをつけて物語にする。というものでした。
「画面上で描く手書きのキャラクター、時間かかりませんでしたか?」と聞くと、その学年の先生はみんな、「全然大丈夫でしたよ、5分もあれば準備できました」
「普段なかなか描かない子も積極的に描いてました。」

そこで何よりよかったのは、「デジタルで書くと、やり直しが簡単で、大きくしたり小さくしたりも簡単。コピーして増やせるし反転もできるし、とても早く完成できていました。」とご説明があったこと。
これ!まさにコンピュータだからできることですよね!私なんか紙に書いてても左手がCtrl+Zの動きをしてしまいますからね。

また、「毎年やってると、物語はなかなか作れなかったり、セリフ入れて!ってしつこく言わないとセリフが入らない子が多かったのに、今年は写真を撮って、そこにキャラクターを描ける、置ける、動かせるというのが、とても子供達によかったようで、自然とみんな言わなくてもセリフがどんどん書けて、驚きました」とのことでした。次はアテレコもしようと思っているそうです。

最後はビスケットでゲーム作りをたくさんしている先生の発表で、子供たちが作ったゲームと、どうやってつくるのか?シューティングとドライブゲームを紹介してくださり、充実した研修になりました。

自然に同じ学年の先生同士で、「これってうちのクラスでもやるにはどうしたらいいの?」とか授業で自分もやってみたい!とう意欲が感じられてますます楽しみです。

おまけですが明後日授業参観ではじめてビスケットやる先生から色々ご質問があって、心配そうだったので、明後日も同じ自治体の別の学校に車でいくので、ちょっとここに再度寄り道して、準備と先生の練習におつきあいする約束をしてきました。

「うわー!やったあー!それなら安心してやれます!」と言って喜んでいただけました。他の先生方も、「えーいいなー」と集まって何やるの?と情報交換ができました。こんな風にみんなで、自然に事例やアイデア、それだけでなく、「なぜ、この実践がよかったか」「どの単元の授業で、目当ては何で、それを、このICT活用のどこで達成しようとしているか?」なども織り込んでお話をしてもらいました。やっぱり先生には絶対敵わない。面白いしかも納得のアイデアが満載でした。
この情報を他の学校さんに事例としてご紹介してもいいですか?とお聞きして、許可をいただいたので、授業案と作品サンプルを作ってみようと思います。

 

写真撮影禁止とか動画撮らないでとかいいますが、私もあまり動画は撮られるの恥ずかしくて苦手。ですが、文章も悪くないみたいです。

また書きます。

 

 

寝た子を起こす気はないけれど「ICT支援員」という名称を変えてほしい

こんにちは。このブログはいつもiPhoneの画面からフリック入力で、思ったままを書きなぐっております。心の叫びです。勢いで書きますので、ツッコミがあればぜひ。そして、こうするといいかも?ここがダメかも?というご意見は本当にお待ちしてます。

まずは、連絡先。info@pa-rana.com

コメントにしないのは、正々堂々お話をしてくださる方と会話したいからです。

 

そういえば、先日のブログを読んで仲間になりたい!と言ってメールをくださった方が何人もいらして、もう泣けました。ここでお礼を言います。ありがとうございます!

 

いろんな人がいて、クレームついたり、もちろん捨てメアドで書く人もいるでしょうけども。そこまでしてクレームだったらそれはそれでご興味をいただけたということでありがたいことです。

 

さて本題です。会社を起こすことにしました。

まだ色々ありまして、準備中ですが。

儲からない業界へのチャレンジです。

皆さんはICT支援員さんのことどう思っておられますか?

 

現状、「ICT支援員さん」っていう仕事は、「支援」だから「手伝い」だよね、ということで、つまりアシスタントや、「副」で何か責任を持つ仕事ではないから当然メインよりは安くて当然という見解なのだろうというのが、会話や文章の端々に見て取れる。私にかけられる言葉も、憐まれてたり、明らかに下に見られているのがありありとわかり、そういう人に「なぜ関係ないあなたに私は見下げられたり憐まれなきゃならないのか?ICT支援員の仕事を少なくとも私は、誇りをもって全力でやっている。この仕事は本当に手加減せずにやっていいなら間違いなく結果にコミットするどこかの企業のように人を変えられると思っている。そしてそれは日本を再興できると信じている」と言ったとしても、やはりそういう考え方って下に見てる人間からいくら聞いたって、響かないのが人の性な気がする。

 

この教育業界だからこそ、その人が「人」を、「人が誇りをもって人のために働くこと」を大切にする人なのか、どんなに肩書きが偉くなってもどんなに他人が崇めていても、会話して数秒で、この人とは言葉では理解し合えないとわかることがある。口先で私と対峙した時だけ感じよくても、この仕事をばかにしてるかどうかは透けて見える。

これまでも何人もそういう人に出会っている。その人たちは私たちだけでなく、周りの自分に頭を下げる人を全て馬鹿にしているのがわかるから、申し訳ないけどわざわざ理解してもらうために大量の言葉を使って解説することはない。だって相手は理解したいと思ってないからだ。

【人は望んでいないことを受け入れない】

これが真理だと思っていて、だから「支援の心」は相手の望むことをじっくり読み取り、様々な方策を立てなくては受け入れてもらえないということを知ることだ。

直接その人から見返りをもらおうとしてはいけない。「支援の心」を持って全力でやったことは、必ずどこかで自分の糧になる。

風が吹けば桶屋が儲かるくらいの勢いで遥か遠くから自分に恩恵がもたらされる。それはどんな心で仕事をしているかにかかってくる。

 

しかしながら、今日本はICTの力を拒否し続けて、こんなに貧しく情けなく自己肯定感のない国になってしまった。それをなんとしても変えたい。ヒントはICT支援員を苦労しながらも、待遇が悪いと思いながらも、それでもやっている人たちの多くは、「進化した人間」が多いことに気づいたことから得た。

 

もちろん本人に自覚がない人も多いけれど、なぜ進化した人間だと感じるかといえば、これまで、支援員の心得などのスタートアップ研修をやってきて、初めて会う10数名の支援員さんに研修をしてみて、「必ず成功する支援の心を持っている」と思う人が本当に多かったからだ。一般的に出会う人も私はたくさんいるのだけれど、その中でも本当に多い。動いていないだけ。今こそこの「進化した人たち」の力を借りて日本を変えたい。

そのために「ICT支援員さん」に「もう一つ」権限を与えてほしい。それは、強く推進して良いというお墨付きだ。やらない人はやってもらうために動いていいよという後ろ盾だ。

 

なぜなら、支援する先生、その先生個人がICT活用をやりたくないならやらなくていいのはあくまで本人のために使う部分のみだからだ。プライベートでは原始時代のような暮らしがしたければそれでももちろん構わない。

自給自足は一つの課題でもあるからだ。素晴らしいことだと思う。

しかし、貧困に陥った日本を変えるには教育を変えなくてはならない。これまでは「ICTを使うことが目的じゃない」とか「ICTはただの道具」だとか、そんな定義を口にできるのは本当に使って、失敗した人だけだ。「あ、失敗した」と感じたのがICTのせいではなく、自分のせいであることを感じるような失敗経験がある人だと思う。

そしてその認識を持って、成功経験をした人がこのセリフを言っていいと思う。

やらない人にICTをディスる資格なんかない。

 

教育を変えていくために一人でも多くの先生方にICTによって変えられる学びがあり、ICTによって救われる子どもたちがいて、ICTによって救われる保護者の方々がいるから、そこから逃げないでほしい。すくなくとも学校教育はこれを変えるにふさわしい全国にこんなに拠点があるすごい組織だからだ。すごい組織の人たちが、すごい役目を放棄しないでほしい。このみんなにやってほしい、私たちが推し進めたいICT活用は、やたら目立つパフォーマンスでこどもの目が輝くとか言ってるようなやつではない!そんなのをあなたにやってくださいなんて言ってないのだ。これだけはわかってほしい。

魔法のようにタブレットをササっと操作して、かっこよく見せるエフェクトまで準備して。そんなのじゃないから安心してください!お願いします!

 

ちなみに最近自分はICT支援員さんではない。たまにしか現場で授業支援するチャンスがなくなったからだ。研修講師と運用コーディネーター(この名前は私がつけたんだけど)の仕事がメインだ。

この仕事は支援員さんよりずっと楽だと思っている。はっきりいって、現場で毎日支援をするのは恐ろしい。いかにこれが恐ろしいことか。だから今私は、現場にいる人には知識も技能も多分敵わない。頭が下がるし、力を借りたい。私が支援員さんたちにできることは、立場の違いで見えることがあって、それを伝えることだ。現場視点でずっと暮らしていると、先生方の視点に立つ場合と、ICT支援員という視点に立つ場合が多い。時には保護者視点になることがある人も結構多い。
前者は先生と仲良くなって、先生の悩みや苦しみを目の当たりにし、感情移入していく。現場の声を聞く時、それも「こんなもの使えない」これをぶつけられるのが我々だ。苦しい。自分はなにも悪くないはずなのに、ICTを導入しようとしている側に肩入れをして促進しようとしている側だからだ。

 

ここからは業者の方に聞いてもらいたい!GIGA前の現場はもうそれはそれは酷く、原因はそれこそプアなネットワークの上に、無神経にネットをガツガツ使って動作するアプリが導入されているせいだったり、そもそも不良品なのでは?と思うような動作の不安定な機材やアプリがβテストか?というくらい平気で入っている。また購入する側と、売る側の機能面での認識がずれている、動作に必要な要件の認識がずれているのが原因だったりもする。

さらに設定もどう設定すべきか、使う人の立場に立って設計されておらず、ほぼデフォルトでインストールされていたり、現場の指示が隅々まで届いていなくて、設定ぬけや、設定ミスが頻発している。これは指示する側も、わかっていない場合と、わかっていても伝え方が適切でない場合と、受ける側との関係が良くないからお互いすり合わせをせず、「言われからやったんだ」という責任転嫁などの多くの原因からなっている。そして、使え使えと言う癖に、何にも検討されていないフィルタリングや復元。フィルタリングや復元は、丁寧に設定したら本当は役に立つもののはずだし、必要なものなのに、それを台無しにしながら現場を縛り続けてきた。

これが銀行や駅などのシステムだったらどうだろう。一つのミスで大事件だ。テロに近い。

でも学校だからこれがある。だって「どうせそんなに使わない」からだ。そして動かなくてもまあちょっと怒られるくらいですんでしまうからだ。しかし、それは現場と直でやりとりする私たちICT支援員さんや、研修講師は、真正面からぶつけられ、自社や委員会の悪口を聞かされそれに反論もできないし、すぐに直すにも故障でない限り仕様書とちがうことを、個人で修正はできないのだ。ものすごい悪口を私たち支援員さんは基本そのまま委員会や業者に伝えることはない。報告書などに「こんな障害がありました。」「こんなお声が上がっています」くらいは丁寧な言葉で書くだろうけれど。おかしいところをICTの力とICT支援員の力で集めて検討してアップデートしてください!!!そして現場にフィードバックしてください!!!

 

毎日浴びせられるどうにもできないクレーム、自分のせいでないクレーム。

今やりたくない人、自分のやり方でしかやりたくない人にとってこれは格好のターゲットであり、言い訳なのだ。こうして、どんなに予算を割いて導入しても使われなくなる。

この情報がまず学校内、もしくは現状把握している委員会内でスタックしている。

 

クレームを言われたことがないと言う支援員さんもいるだろう。よほど順調で潤沢でうまく稼働している学校なのかもしれない。

それならそのノウハウは本来他の学校にも広まってほしい。なのに学校は完全にそのノウハウを外に出さない。というか頭にない。なんというか、学校は公的機関なのに、なぜ自分の学校だけよければそれで完了なのだ。公的な機関なら国がよくなるために、かっこいい公開授業や輝かしい表彰状ではなく、生の、本当のノウハウをなぜ共有できないのか。

そこに入っている業者の考え方は公的機関ではないからもあると感じる。自分の企業が成功すれば、他の自治体の入札も自分が取れる。ここは競争社会だから、成功したメソッドは誰にも見せない。支援員さんたちもその「社外秘」という言葉を曲解していて、同じ会社ですら別自治体だと情報は隠蔽される。

競争のために「社外秘」とすべきことと、自治体の安全のために「セキュアな情報」とすべきことと、学校の安全のために「公開してはいけない情報」と『特になんでもないこと』をもっと適正に分けていかないと、本当にもう絶望的にお話にならない。延々と車を回し続けるハムスターのようだ。

「こんなすごい実践をしました!!!こんな使い方は見たことがない!革新的だ!!」って書いてあるけど「いや、もう10年前にそれやってるよ…」みたいなそんなディスり合いも悲しい。ICTは機械のことでもロボットのことでもプログラミングのことでもなく、「情報」を「相互通信」する「技術」じゃないのか?

私間違っているだろうか?

 

この莫大な情報の流れを私たちICT支援員の力を合わせて、整えて機能させていきたい!

これが本命だ。そのために、先生の背中を押していいよ!というお墨付きと、大事なことは業者さんたちや委員会さんに適切に伝えられるスキルと表現力を身につける訓練がどうしても必要なのだ。だからこれから増えていくICT支援員さんをGIGAのために仕方ないからと適当に入れ、機能をさせず、一応5年もやれば文句言われないだろうから打ち切りにし、なんの効果も得られない上に支援員さんたちは仕事を失う。スキルも伸びなければ、安すぎる賃金と重労働で、出てくるのはSNSへの悪口や愚痴。

何一ついいことは起こらない。そうやって、この仕事は機能を封じられたまま、「ICT支援員なんて儲からない」という不名誉を着せられて、どんどん市場価値が下がってしまっているとすら感じる。

 

この最悪な状況を必ずひっくり返して、すべてを機能させれば、私は学校現場から日本を変えられると信じている。

すべての学校が「新しい学校」になったらそれはもう新しくないよね

NHKあさいちを見て、広島にできた新しい公立学校の校長先生がご出演され、その取り組みが特集されていた。民間から横浜の校長になり、そこから抜擢されて広島の教育長に抜擢され、全寮制の学校を作られた。業界では有名な方だ。

 

新しい学びを目指す教育業界の隅っこにいるものとしては、最近注目され、次々と生まれるこう言った新しい学校に、ただ単純に「すばらしいーパチパチパチ」と思うだけでは思考停止だなと思い、少し考えてみた。

まず初めにへそ曲がりの自分としては、「学習規律」も合理的な見直しが必要なだけで、学習規律が悪いからなくせ!というわけじゃないと考えている。

 

⚫︎なぜ社会で生きていくのにさまざまな年代が混じるのに、学校は横並びにするのか
→縦割りクラスを実施これは大賛成。

私がご縁があって毎年訪問している福島の幼稚園がこの縦割りですばらしい教育を実現している。その効果や意味が体感できているから納得だ。


⚫︎その時学びたいやりかたで
→座っても立っても寝転んでも
→紙でもタブレットでも
これも娘たちに聞いたら「正しいと思う。これがいい」ただ、娘たちはこれまでのように全員座って紙のドリルに取り組まされても、死ぬほど苦しいというわけではなく、つまり馴染んできた子供だ。(学習方法合ってないことに気づかなかったから算数が苦手なのかも知れないがそれは今更言われてもである)

 

これまでのように、ドリルなどをやるときは、静かで一人で考えたい人だっている。教えにきたりお節介をされたくない子もいる。これまでのスタイルの方が能率良く学べる子だっている。そして、それを古いとか悪だとか単純に振り回されることこそが、思考停止だと思う。

 

構われたくない集中型の子は、ちょっかい出したり騒ぐ子が教室から摘み出されると、「平和が訪れた…」と感じていたはずなのだから。

摘み出される子にも言い分があると考えるあまりそちら側に加担しすぎて、じっと待っている子たちには「待ててえらいね。ありがとう」なんて言ってはもらえてないんじゃないだろうか。


⚫︎こういう学校が拡がれば良いか?
→それも、やはり子供に合わせたものであればこれに限ったことではない。

この学校の校長先生がこう語られたことが個人的には嬉しかった。近頃「多様性」が叫ばれているが、安易にこの言葉を振りかざす人が増え、逆に偏った「多様性」だと感じることが増えているから。先生は教えない!とかいうけれど、尊敬する人に教わりたい子だって居ると思う。


⚫︎好き勝手なことをし出す子がでませんか?
→好き勝手をしていいという意味ではない
気になるのは、この学校が公立でありながら選抜だということ。

算数ドリルの時間に部屋でジャンプしてドリルはやらない!と言ったらどう対応するのかを知りたかった。選抜だからそういう子はそもそも入れないのではないのか。そこまでの舞台裏は見えなかったからここが疑問として残った。

 

つまり、これはこれで、ルールはあると思う。それがここの「学習規律」なのではないか。
身体的に非合理的な全員背筋を伸ばして硬い椅子に座って…というのは学習規律としてそれがそもそも「できない体」の子には拷問だろう。
でも、同じ学校内に通い、同じ制服を着て、決められた時間には英語で話すことがルールとして存在してる。何にもないわけじゃない。算数の時間にその部屋で走って身体を鍛えてます!という子は見当たらなかった。

 

学習規律をそれこそ非合理的に、裏付けやビジョンもなく全部なくせ!と言ってるのではないのだと言うことが伝わらないと、これまで学習規律を一生懸命守ってきた保護者や子供、つまりそれを我慢だとしても守ることができる体と心がある側の人間はそれによって学習環境が守られてきた人もいるのだ。

 

そう言う視点で、これまで我慢ができていた注目もされず支援もされない、派手にはしゃいでJKの典型のように思われるタイプでもない。かといって暗くて友達がいないというわけでもない、そんな我が子たちのような子供はどっちの教育スタイルでも構ってもらえないでいる。だから、「合わせる」ことに長けていくのだ。

本当の多様性を受け入れる社会になった時、我が子たちは自分の道を選べるか心配した。

結論から言えば、3人とも成人した私の娘たちは、逆に